生い立ち・略歴
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群馬県北甘楽郡高瀬村に生まれる。1918年(大正7年)16歳で、日本組合甘楽(基督)教会にて岡部太郎牧師より受洗。同志社大学法学部政治学科卒業。三井銀行に入行したが2年で退職。大学の恩師で法学部教授・中島重に共鳴、日本労働者ミッション派遣員として京都府綴喜郡下草内村で伝道、のち、賀川豊彦の支援により岐阜県加茂郡富田村で農民福音運動やセツルメント活動に従事、兼松沢一らを指導した。 1934年(昭和9年)-1937年(昭和12年)、同志社大学文学部神学科に学んだ後、日本組合渋谷基督教会、日本組合永福町基督教会牧師を歴任。 1941年(昭和16年)6月の日本基督教団設立後、第3部主事、総務局主事を経て、1946年(昭和21年)旧知の兼松らの招きで岐阜県に「日本基督教団 坂祝(さかほぎ)教会(現在、中濃教会)」を設立し農村伝道に従事。 その間、日本基督教団農村伝道特別委員、農村伝道神学校理事などを務めた。 1952年(昭和27年)同志社大学の大下角一(当時、神学部長)の招きにより同志社大学宗教部主事、のち宗教部部長、神学部教授(実践神学)、同志社大学学生部長を歴任、日本基督教団 丹波教会牧師を兼務。 1961年(昭和36年)、湯浅正次の招きにより新島学園中学・高等学校の校長に就任、1980年(昭和55年)新島学園学園長となる。1983年(昭和58年)新島学園女子短期大学設立に尽力し、初代学長となった。 1983年(昭和58年)8月12日死去(81歳)。 上掲略歴は岩井健作による『日本キリスト教歴史大事典』の項目「岩井文男」の記述に依拠するが、「岩井文男関係年表」に詳細が整理されている。
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生い立ち・略歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 19:21 UTC 版)
ベルリン生まれで、イタリア系スイス人で映画セット・デザイナーの父と、ポーランド人の母を持つ。子供の頃は、4人兄弟であったこともあり家庭は貧しく玩具など買ってもらえないながらも、自身で工夫して玩具が作れるようにと、親は木切れやボール紙を与え、自然にものを作ることを覚えた工作少年だったという。 ハイスクール卒業の後、1946年ベルリン芸術大学で彫刻と絵画を学んだ。その後1949年から1952年パリのソルボンヌ大学で空気力学を学んでいる。 19歳のとき、彼は自動車デザインスタジオへの就職を目指してフランスへ渡り、ここでプロパグという出版社に勤めながらレイアウトや製図の仕事をした。この仕事が評価されシムカのレーシングマネージャーであったミシェル・ゴーチェの依頼で、彼はフランスで初のファイバーグラス製レーシングカーの開発を手掛け、更にフランスレーシング界の大物とも仕事をするようになった。彼はこのフランスで生活していた時にパリ大学で空気力学の研究を始めた。彼はかねてより航空機のデザインに強い憧れを抱いていたが、この研究が彼のデザインと流体力学を直結させる独自のスタイルを拠り強固なものとした。 ソルボンヌ在学中に彼はベルリンに戻り、コーチビルディング工場のロメッツで働き、この時デザインしたフィアット1100tvで1954年のジュネーヴで開催されたカーデザイン・コンペティションでゴールデンローズ賞を獲得している。更にアメリカ合衆国の航空機産業の見学旅行とフランスで過ごした10年の後、彼はベルリンでコーチビルダーとして著名なエルドマン&ロッシ社に勤めながら自前の作業場で前衛的なスポーツカーのプロトタイプ製作を始める。ただ、彼のデザインはあまりに奇抜であったため、これらは一般車には用いられなかった。 この中で唯一といっていい量産例は「コラーニGTスパイダー」で、これはフォルクスワーゲン・ビートルにFRP製ボディを追加するというもので、ビートル改造愛好者向けのキットとして500セット限定で生産された。この期間、彼はパリの著名ファッション店のために新しい靴のデザインを幾つも手掛け、中には「金の靴」賞が与えられたものもあるという。 1968年にはデザイン会社を設立、家具業界との密接な関係を保って、数多くのデザインを手掛けている。球形のキッチンユニットや安楽椅子のような秘書用のタイプライターデスクなど、異彩を放つ製品もないではなかったが、極めて実用性を重視したものだった。この前衛的ながら機能的な家具は国際的にも評価され、米国の主だった近代美術館でも展示されているという。 1970年にはミュンスターにほど近い17世紀の古城「シュロス・ハーコッテン」に移り住んで活動していた。 ミラノ、カールスルーエ、上海、モスクワ、サンパウロにオフィスを構え文字通り世界を股にかけて活動していたが、2019年9月16日、ドイツのカールスルーエで死去。
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