生い立ち・日本留学
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1898年3月5日、江蘇省淮安府に誕生し、天津の南開中学校で学んだ。南開中学卒業後の1917年に日本に留学した。日本語の習得不足により第一高等学校と東京高等師範学校の受験に失敗した。その後東亜高等予備学校(日華同人共立東亜高等予備学校)、東京神田区高等予備校(法政大学付属学校)、明治大学政治経済科(旧政学部、現在の政治経済学部)に通学した。 日本では勉学に励んだ他、友人と活発に交流して祖国の将来について語り合っている。また日比谷公園・靖国神社・三越呉服店・浅草など、各所を積極的に見てまわっている。1918年5月1日には靖国神社の大祭を見物し、「それを見て甚だ甚だ大きな感慨を催す。」と語った。また6月2日にも游就館を訪れたことも日記に記している。日本社会や日本人についてもよく観察しており、これが知日派としてのベースを作った。同年に留学生の一斉帰国運動も起きるが、周恩来は冷静な対応をしている。一旦中国に帰るが、再び来日した。帰国前の数ヶ月については記録も無く、よく分かっていない。苦渋の中で酒に溺れがちだったという説もある。やがて、母校の南開学校が大学部を創設するということを知って、帰国を決意した。 船に乗るために神戸に向かう途中、京都の嵐山に寄って歌った詩の「雨中嵐山」は、嵐山の周恩来記念碑に刻まれている。河上肇の著書で初めてマルクス主義に触れ、京都大学でその講義を聴講もしている。1919年4月に帰国し、南開大学文学部に入学。その直後に中国近代史の起点となる五・四運動が起きる。周恩来は学生運動のリーダーとなって頭角を現していく。なお日本滞在中の様子については、『周恩来 十九歳の東京日記』が最も正確で詳細な記録である。東京日日新聞の神近市子記者のインタビューを受けたという、従来の伝聞や伝記にあった誤りも指摘されている。 1917年の周恩来 石碑「周恩来ここに学ぶ」東京都・神保町 1919年の周恩来 1919年9月25日、南開大学開校記念写真。最後列の左端が周恩来 黄埔軍事学校での周恩来
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