生い立ち・日本留学とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 生い立ち・日本留学の意味・解説 

生い立ち・日本留学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 00:01 UTC 版)

周恩来」の記事における「生い立ち・日本留学」の解説

1898年3月5日江蘇省淮安府誕生し天津南開中学校学んだ南開中学卒業後の1917年日本留学した日本語習得不足により第一高等学校東京高等師範学校受験失敗したその後東亜高等予備学校日華同人共立東亜高等予備学校)、東京神田区高等予備校法政大学付属学校)、明治大学政治経済科(旧政学部現在の政治経済学部)に通学した日本では勉学励んだ他、友人活発に交流して祖国将来について語り合っている。また日比谷公園靖国神社三越呉服店浅草など、各所積極的に見てまわっている。1918年5月1日には靖国神社大祭見物し、「それを見て甚だ甚だ大きな感慨を催す。」と語った。また6月2日にも游就館を訪れたことも日記記している。日本社会日本人についてもよく観察しており、これが知日派としてのベース作った同年留学生一斉帰国運動起きるが、周恩来冷静な対応をしている。一旦中国に帰るが、再び来日した帰国前の数ヶ月については記録無く、よく分かっていない。苦渋の中で酒に溺れがちだったという説もある。やがて、母校南開学校大学部創設するということ知って帰国決意した。 船に乗るために神戸に向かう途中京都嵐山寄って歌った詩の「雨中嵐山」は、嵐山周恩来記念碑刻まれている。河上肇著書初めマルクス主義触れ京都大学でその講義聴講もしている。1919年4月帰国し南開大学文学部入学。その直後中国近代史起点となる五・四運動起きる。周恩来学生運動リーダーとなって頭角現していく。なお日本滞在中の様子については、『周恩来 十九歳東京日記』が最も正確で詳細な記録である。東京日日新聞神近市子記者インタビュー受けたという、従来伝聞伝記にあった誤り指摘されている。 1917年周恩来 石碑周恩来ここに学ぶ東京都神保町 1919年周恩来 1919年9月25日南開大学開校記念写真最後列左端周恩来 黄埔軍事学校での周恩来

※この「生い立ち・日本留学」の解説は、「周恩来」の解説の一部です。
「生い立ち・日本留学」を含む「周恩来」の記事については、「周恩来」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「生い立ち・日本留学」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

生い立ち・日本留学のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



生い立ち・日本留学のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの周恩来 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS