生い立ち・教育・家族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 18:57 UTC 版)
「エリザベス・ウォーレン」の記事における「生い立ち・教育・家族」の解説
1949年6月22日にオクラホマ州オクラホマシティの中流階級の家庭で父のドナルド・ジョンズ・ヘリング、母のポーリーン(旧姓リード)のもとにエリザベス・アン・ヘリングとして誕生した。ウォーレンは家庭について「中流階級の底辺」、「中流階級にようやく手が届いた程度」と語っている。3人の兄がいる末っ子であった。12歳の頃、小売のモンゴメリー・ウォードの管理人であった父は、心筋梗塞で倒れて働けなくなり、収入が無くなると共に医療費がかさんだ。ローンが払えなくなり車を失った。家計のため、母はシアーズのカタログ部門の職を見つけた。13歳の頃、叔母が経営するレストランでウエイトレスとして働き始めた。 ノースウエスト・クラスン高等学校にてディベート・チームの主要メンバーとなり、州内の高校生のディベート・チームによるコンクールにおいて優勝した。16歳の頃、ジョージ・ワシントン大学のディベート奨学金を勝ち取った。当初教師を目指していたが、大学入学から2年後、高校時代から交際していたジム・ウォーレンと結婚のため退学した。 NASAのエンジニアであった夫に伴い、テキサス州ヒューストンに転居した。ヒューストン大学に進学し、1970年、言語聴覚学で理学士を取得した。教員免許を取得していなかったが臨時免許を取得して1年間公立学校にて障碍のある子供たちに教育を施していた。 夫の仕事の都合でニュージャージー州に転居し、妊娠したウォーレンは専業主婦となる決意をした。娘が2歳になると、ウォーレンはラトガース大学法学部に進学した。夏季、法律事務所カドウォラダー・ウィッカーシャム&タフトでインターンとして働いた。1976年の卒業直前、第二子を妊娠した。法務博士に認定され、司法試験に合格し、自宅で弁護士の業務を開始し、遺言状の作成や不動産に関する手続きなどを行なっていた。 第二子出産後、1978年、離婚した。現在、孫がいる。1980年、法学教授のブルース・マンと再婚したが、ウォーレンの姓を残した。
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