生い立ち・生涯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/12 10:10 UTC 版)
「落合英二 (薬学者)」の記事における「生い立ち・生涯」の解説
1898年6月26日 教育家落合初太郎の三男として埼玉県浦和で生誕、母はノブ。1911年3月、千葉師範学校付属小学校卒業。4月、千葉県立千葉中学校入学。幼時は虚弱であったが、植物採集に熱中して健康になった。1916年3月、県立千葉中学校卒業。9月、第二高等学校二部乙類入学、2年の時安田教授の指導で地衣の新種チレア属を発見、3年の夏休にチフスで命びろいをする。 1928年12月、光代と結婚。1945年5月24日、空襲爆撃によって自宅を羅災する。1947年3月、このころ小石川茗荷谷の新居に移る。 1966年8月、都内の喧噪を避けて鎌倉東御門の新居に移る。鎌倉に移ってからも、公的な活動は続いたが、鎌倉市民への植物同好会「ミチクサ会」では、植物好きの落合は、時には専門的な知識を発揮して指導に当たり、地元の中学・高校の先生たちとも親交を深め、自ら蒐集した変形菌の標本は、若い人々が活用されるよう、県立博物館に補完され、彼の遺志を伝えている。 1972年10月、体調を崩して入院を迫られる。11月、虎の門病院に入院。12月に手術。1973年1月、退院して静養。 1974年7月、喜寿を祝う薬化学の会に招かれ、喜色満面で応対された。9月30日、宿痾が再発され入院加療に努めるが及ばず。11月4日、満76歳で死去。生前の勲績により、従三位に叙され、勲一等瑞宝章を授けられた。 11月15日 青山斎場で告別式が営まれた。鎌倉の霊園に墓がある。
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