漢口・広東攻略
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1938年6月、蔣介石ら中国軍による黄河決壊事件により河南、江蘇省、安徽省の3000平方キロメートルの土地が水没し、民間人の被害は数十万人となった。日本は6月15日、御前会議で漢口・広東攻略を決定した。1938年7月4日、中支那派遣軍に第2軍、第11軍が編入され、武漢攻略作戦の態勢がとられた。7月11日〜8月10日の日ソ武力衝突張鼓峰事件が解決したのち、8月22日から日本軍、武漢三鎮を攻略開始する(武漢作戦)。10月12日、第2軍が信陽を占領。 広東攻略を命じられた第21軍(兵力7万)は1938年10月9日、台湾を出発、10月12日にバイアス湾上陸し、10月21日に広東を占領、日本軍の損失は戦死173、戦傷493だった。 10月27日 - 日本軍(中支那派遣軍)、武漢三鎮を占領。武漢作戦の兵力は35万、第2軍戦死2300、戦傷7300、第11軍戦死4506、戦傷17380人だった。武漢と、広東の占領によって日本の軍事行動は頂点に達した。武漢陥落によって蔣介石は重慶に政府を移した。 日本の東亜新秩序宣言 1938年11月3日 - 近衛首相は、国民政府はすでに一地方政府にすぎず、抗日政策を続けるならば壊滅するまで矛を納めないと述べたうえで、日本の目的は「東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り」、国民政府が抗日政策を放棄すれば新秩序参加を拒まないとの東亜新秩序声明(第二次近衛声明)を出した。蔣介石は12月28日、「東亜新秩序」は中国の奴隷化と世界の分割支配を意図していると批判、アメリカ合衆国も承認できないと日本を批判した。11月12日 - 中国軍により長沙大火が起され、人口50万の都市が潰滅。 11月 - 援蔣ルート(ビルマルート)完成。 11月20日、秘密協定「日華協議記録」が成立し、日本側からは影佐禎昭大佐、今井武夫中佐、中国側は高宗武、梅思平の間で調印された。日華協議記録には、日華防共協定、満州国の承認、日本軍の撤退などが内容であった。 11月30日、御前会議で日支新関係調整方針を決定。 12月6日決定の「昭和十三年秋季以降対支処理方策」では占拠地拡大を企図せず、占拠した地域を安定確保の「治安地域」と、抗日殲滅地域の「作戦地域」に区分した。12月16日、中国政策のための国策会社興亜院が成立する。 汪兆銘の重慶脱出と日本の対応 12月18日には蔣介石との路線対立で汪兆銘が重慶を脱出し、昆明、ハノイに向かう。12月22日、近衛首相が近衛三原則を発表(第三次近衛声明)。日華協議記録と類似した内容であった。12月25日、汪兆銘は日本の講和条件は亡国的なものではないと駐英大使につたえる一方、蔣介石は12月26日に近衛声明を批判し、また汪兆銘のハノイ行きは療養目的と公表した。しかし、汪兆銘は12月30日の香港『南華日報』に、近衛声明にもとづき日本と和平交渉に入ると発表した。1939年1月1日、国民党は汪兆銘の党籍を永久に剥奪した。1939年3月21日に汪兆銘は暗殺されようとするが、曽仲鳴が代わりに殺害された。 1939年(昭和14年)1月4日、近衛内閣、総辞職。平沼内閣となる。 1939年の作戦としては1月からの重慶爆撃、2月10日の海南島上陸、3月の海州など江蘇省の要所占領、3月27日の南昌攻略などがあったが、戦争は長期化の様相を呈し、泥沼化していった。阿部信行大将も講演で昨年1938年暮れより1939年夏まで「戦さらしい戦さはない」「ただ平らであるが如く、斜めであるが如く、坂道をずるずる引摺られ上って行かなければならぬ」と述べた。 4月 - 中国軍、南支で春季反撃作戦。 5月3日 (中攻45機)と4日 (中攻27機)に海軍航空隊が焼夷弾爆撃を実施した。重慶防空司令部の調査によると両日で焼死者3991名、負傷者2323名、損壊建物846棟に達し、英大使館、仏領事館、外国教会にも被害が及んだ。 5月初め - 日本軍、襄東作戦。 5月7日、板垣陸相は、支那事変が解決されないのはソ連とイギリスの援助によるとして、ドイツとイタリアとの軍事同盟が必要と五相会議で述べた。 5月11日、ノモンハン事件勃発(日ソ武力衝突)。 6月13日 - ソ連、国民政府に対し1億5000万ドルの借款を供与。 6月14日に日本軍は天津のイギリス租界を封鎖するが、これは4月に発生した臨時政府要人暗殺テロ犯人の引き渡しを租界当局が拒否したからであった。日本とイギリスは7月15日から有田・クレーギー会談を実施、イギリス側は中国における現実の事態を完全に承認し、日本軍が治安維持のために特殊な要求を有することを承認するとした。ただし、これはイギリスの対中政策の変更を意味するものではないとされた。 6月21日 - 日本軍、汕頭占領。 イギリスが日本に一歩後退したのに対してアメリカ合衆国は7月26日、日米通商航海条約の廃棄を突然、日本に通告し、日本側は衝撃をうけた。11月にはグルー駐日アメリカ大使との会談がはじまるが、12月22日、アメリカは中国で日本軍が為替、通貨、貿易など全面的な制限を行っている以上、協定の締結は不可能として拒絶した。 8月23日 - 独ソ不可侵条約締結。8月28日、平沼内閣、総辞職、阿部信行内閣となる。 9月1日 - 欧州で第二次世界大戦勃発。阿部内閣は不介入を声明する。 9月15日 - ノモンハン事件停戦協定成立。 9月下旬 - 日本軍、贛湘作戦、(贛は、江西地域のこと)。 10月 - 日本軍、翁英作戦。 11月7日 - 北支で日本兵捕虜が日本兵士覚醒連盟を結成。 11月 - 日本軍、援蔣ルート遮断を目的とする南寧作戦を実施。24日に南寧占領。 11月30日 - 日本政府、フランスに仏印経由での援蔣行為の停止を要求。 12月 - 中国軍、全戦線で冬季大攻勢を開始。崑崙関の戦い。 12月13日 - 日本軍、九宮山作戦。 12月 - 日本軍、陸水作戦。 12月25日 - 桂林で鹿地亘らが日本人民反戦同盟を結成。
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