松浦志佐郷池氏とは? わかりやすく解説

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松浦志佐郷池氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/20 06:39 UTC 版)

池氏」の記事における「松浦志佐郷池氏」の解説

古城弥三郎嫡子である古城筑後康貫(後に池姓を受け池筑後)を祖とし、現在の志佐郷池成現在の松浦市志佐町池成免)を拝領した一族山崎池下県道にある石祠八尾明神祀り氏神とする。 なお、志佐物語肥前蓮池城の子孫、越前の池との記載があるが、偽文書可能性があるため、要考察のこと。 また、古城姓は、桓武天皇の子孫が平の姓を賜った平氏家系であるが、要考察のこと。 1484年文明16年)、調川天満宮鰐口三郎左衛門寄進同じく金幣を池吉兵衛奉納 1590年天正18年)、高麗従軍際し秀吉公が唐津名古屋入りし、志佐壱岐守純意の名古屋寄った志佐壱岐守お供の侍として、池(野)筑後西山)、池弥兵衛志佐)が旗本として参加1670年寛文10年)、志佐喜兵衛新田(浜丈池喜兵衛)なる 1715年正徳5年)、淀姫新田竣工、池(野)孫右衛門栄貞、池(野)増右衛門岩崎六兵衛、浦吉兵衛人数となって淀姫新田造成1720年享保5年)、淀姫神社再建代官末武善太夫畑原左衛門力武与兵衛、浜丈池吉兵衛 1721年享保6年)、池(野)孫右衛門栄貞死(節翁宗忠居士1790年寛政2年)、池国十郎祖先らが住吉新田造成携わっている。また、浜新田善兵衛浜新田沖新田新田)は池善兵衛宰領であり、造成同年2月沖新田新々田龍王祠を建てる補足であるが、 池弥兵衛は、立石家所蔵志佐物語志佐祖先諸士目録足軽大将として志佐五十人の一人として記されている。 1720年淀姫神社再建については、志佐二世物語詳細記されている。淀姫大明神宮司相定事、淀姫再建の時は、代官末武善太夫、同 本瀬三五左衛門高野庄屋 左衛門里庄力武与兵衛、横辺田庄屋 畑原左衛門世知庄屋 山口右衛門福井庄屋吉兵衛、浦浜丈 池喜兵衛志佐庄屋としては、正徳五年 浜丈池孫右衛門享保七年 浦浜丈池喜兵衛の名が残っている。 現在の長崎県松浦市佐賀県有田町その周辺では数々大蛇伝説見受けられる。 横辺田山山大蛇退治 志佐物語古城筑後康貫は元根(もともとは)肥前国蓮池城主たりし、古城弥三郎嫡子なり。故障の儀有りて父弥三郎勘当させられ是非なく故郷去り志佐頼りきたり、山城守、情有りてよにき計い給いけり。是はさておきその頃領内辺田山崎)と云う在所に、古来天然の池あり、彼の所定険岨にて麓は大川川上高山にて高し在所の住なれし者の伝にも大蛇有りとして、ほとりに近づく者なし。頃は五月半とかや在所の郷民早苗とらんとて夫婦幼なき娘をもともない、彼池の辺にて終日家業営みたり。夕方になりければ夫は婦に云いけるは早や夕方になりければ帰るべし、娘をも相つれよ。我は後より帰るべし。婦心得たりと、彼の娘を呼べども声なし、見れども形なし、こは何とも夫婦諸共叫べとも其甲斐こそはなかりけり。夫婦涙にくれ、終日夜中彼の池のほとりにたたずめども声あるは谷のばかりなり。夜もほのぼのと明けくれば夫は婦に言いけるは伝え聞く池の大蛇我一子を取りたりと覚えたり念力岩を通すならい、なにさま悪念従え我一子の供養にもせばやとて在所の郷民残りなく語らい、麓なる大川より池は二十尺高かりけるを日数経て池際に掘り付、彼の池水麓の大河流れければ、池潮干潟如くにぞなりにける。其時空掻き曇り雷電震動す。すはや彼の大蛇ぞと逃げよ者共声々呼ばわりて、辺に近づく郷民一人もなかりけり。時移り漸く天も晴れ在所百姓震いわななき遠見するに彼の大蛇住所失い、池の水上なる大木に巻上り目に映らう眼、鏡面を見る如くなり。あたりに寄るべき者もなし。夕方になりければ時ならず激しく在所の屋室悉く破損し或は彼の辺、光りしきりなれば土民等家を去ることなし。所の地領其外直谷へ数十馳参し、此事口々に言上す。 山城殿を始め外郎評定す、此度蓮池より頼りたる、古城こそ名を得し者の末といい、其武力試み見ん為なればとて即ち筑後定まり、相心得る旨御請をなし、私室入り、身を差し固め得物弓取同じく矢を負い相伴う下人余人足軽ども都合四十五騎にて直谷を立ち、彼の在所に行向かい、辻々に足軽五騎七騎ずつ付置、其身は下部二、三人相具し彼の池の辺に行き水上大山見れば件の大蛇大木十重はたえに巻き付き眼は白盤鏡の如くなり筑後間近く立より、弓に矢をつがい、南無日輪魔利支天と観念し暫く固めて兵(ひよう)と放す。矢あやまたず大蛇半眼ぐっと射貫き、元の住所干潟なる池に飛越して、上を下へ転びしに、俄に騒ぎ曇りをしたいし、篠をつく如くなりその時筑後寄れ者共数十一度揃って沼に飛び入り散々に撃つ、程こそあれ少しひるみしを見るにその長さ丈余(十メートル)の大蛇にて一頭八尾なり。具足綴じた如くなり筑後立より頭を差し切り、八尾を畔に埋めけり。直谷に帰り有り次第細々に申し出づ。山城守聞き給いて、天晴れたる武力なり、尚、武道励まれよ、又、貴殿越前池氏聞く。その上中頃肥前蓮池なり。此度無頼の高名、所も古来の池、旁々以ってなれば古城を引きかえ池氏先祖帰り給えと、即ち池筑後改む向後、我に従い、忠し給え志佐郷の内五長八反に感状添え給えり。今の池成よばわるとぞ。霊魂再び在所に仇すにより、骸を池の水上なる山に八尾(やつのお)明神と祟し置く。横辺田池本明神是なりき。付記1、志佐町浦免池氏は池筑後後裔である。2、山崎池は長野免と笛吹免目隠の境にある。3、池は落ち口堀切り現在は田になり、八尾明神山崎池下県道上に石祠があり、志佐町池氏が時々参拝されている。 山城守とは、志佐氏の直谷城志佐山城守純正を指す可能性が高い。つまり、1590年志佐壱岐守純意に従軍した池(野)筑後志佐物語の池筑後(または古城筑後)であり、後世に、偽物語として、大蛇退治創作した推測される。要考察のこと。 山崎大蛇退治伝説長崎県松浦市史より引用) 『昔ここに天然の池があり、1頭8尾の大蛇住んでいました。娘を大蛇呑まれ両親池の端切ってを川に流すと、大蛇現れ風雨激しくなったため、殿様大蛇退治頼みました命じられた池筑後(いけちくご)は家来とともに大蛇退治しましたその後大蛇のたたりがあったため、8尾を8ヵ所に分けて祀った伝わっており、近くには八尾(やつのお)神社や、八尾大名人を祀った住吉神社あります。』 松浦市民話 昔、大蛇百姓の娘を飲み込んだ。親は悲しみ大蛇討って娘の供養をしようとして近所の人々協力のもと池の落とした。ふもとの大川よりも六,七メートル高い池はたちまち干上がったが、空が急に曇り稲妻走り現れ出でた大蛇人々恐れ逃げ帰った住処失った大蛇木に登り大きな目をぎょろつかせている。雨風止まず家々の戸や壁は崩れ池の周りすさまじかった村人吉井の直谷の城に助け求め、直谷の山城守四、五人をつけて古城筑後こじょうちくご)に大蛇退治命じた筑後は「南無日輪摩利支尊天」と唱え大蛇の目を射抜き、池に飛び込み大蛇止め刺した大蛇身の長さ三丈三尺にも及ぶ一頭八尾悪霊であった山城守筑後守武勇称え褒章に支佐郷内田を与えた。しかしその後筑後守大蛇祟り災難続いたため、その骸を池の下の山に埋め八尾大明神祀っている。 横辺田大蛇退治 また、上述した大蛇伝説松浦市教育委員会平成4年1992年)に再編し、「松浦民話」という本に「横辺田大蛇退治」として紹介している。

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