文壇の反響・同時代評価
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「荒野より (小説)」の記事における「文壇の反響・同時代評価」の解説
江藤淳は、三島としては珍しい心境小説の「生き生きとして躍動して」いる前半部分の描写を高評価しつつも、作品終盤の「下げ」は、「作家らしい哲学」が付け加えられて、あまりに「気は利いている」がゆえに、〈本当のこと〉らしくないと評している。 山本健吉は、「すっきりまとまった短編」と評し、闖入者の青年を通じて、「自分の小説の毒と対面せざるをえなかった」三島には、その毒がいつか「小説家自身をも毒するものだという予想」があるとし、三島の唱えている、〈芸術家にはたしかに、酒を売る人に似たところがある。彼の作品には酒精分が必要であり、酒精分を含まぬ飲料を売ることは、彼の職業を自ら冒瀆するやうなものである〉という考えに関しては、「(三島)氏が中年期にさしかかり、老年期にはいったとき、なおこのような芸術観が氏をささえうるだろうか」と述べ、山本自身は「芸術による酩酊」は欲せず、少なくとも散文芸術の小説において求めるものは、「心の静穏」だと異論を唱えている。 磯田光一は、三島が『危険な芸術家』という評論の中で、青少年にエレキは有害でベートーヴェンは安全で有益であるという考えが〈近代的な文化主義〉の影響で世に蔓延り、〈ベートーヴェンのベの字もわからない俗物〉もそれを鵜呑みにし、〈政府の文化政策〉もその線から離れられないことに言及しながら、〈毒であり危険なのは音楽自体であつて、高尚なものほど毒も危険度も高いといふ考へは、ほとんど理解されなくなつてゐる〉 と指摘していることに触れつつ、『荒野より』の中に、それと同様の三島の「芸術的マニュフェスト」や、「自己批評」を我々が読み取ったとしても、「日常生活と荒野との間にひろがる溝の深さは、大きくも小さくもならない」として、この作品意義を以下のように評価している。 この荒野のなかにどのような暗喩を読むかは人の自由である。だが草も木もない不毛の荒野こそ、あらゆる文化の価値体系が相対的に見えてしまうゼロ地点、さらにいえば、芸術家が作品という虚構の裏側でたえず向き合うことを強いられているどす黒い虚無に通じるものではあるまいか。「作品」は、「言葉」というオブラートに包まれた毒薬である。いや、このばあいオブラートという比喩は必ずしも適当ではない。「言葉」はつねに社会の側に属しており、「社会」の側から見るならば、「毒」とは何物でもない。「毒」と「社会」との断絶に架橋するものは、「言葉」の魔術以外にあろうはずはないのである。 — 磯田光一「文化主義に背くもの――『荒野より』について」 佐伯彰一は、『荒野より』の中で、芸術家を〈酩酊を売る人〉、諸作品を〈酒〉と言った三島の自覚を「不気味なほどの的確さ」とし、後半の〈私〉と〈あいつ〉との「重ね合せ」の明晰な分析や、孤独への嗅覚の鋭敏さは鮮やかで、「きりりと引きしまった短篇」ではあるとしながらも、短編小説自体の読後感として見た場合、「割り切れすぎて、含みと余情に乏しい」と評し、同じく「孤独」のテーマを扱い、「聞き書きの話」という間接法で書かれた、芥川龍之介の短編『孤独地獄』の方が孤独に身につまされている余韻が感じられるとして、両作品の比較論を展開している。 佐伯は、『花ざかりの森』から『豊饒の海』に至るまで、〈孤独〉は三島作品の基本テーマの一つであったが、芥川やその弟子の堀辰雄、さらに太宰治と比べてみると、三島の対処は、「孤独そのものの定着、造型」の点で「弱味が目立つ」とし、三島の場合は早急に自己を対象化し、「位置づけと診断」の方向へ一気に突っ走り、太宰とは違う意味で「生きることに心せいた」三島であったが、「孤独に対してさえも、終始前のめりの姿勢をとりがちだった」と考察している。そして、もしも三島が死なずに逮捕され、「獄中」に下り、ワイルドのように蔑まれる孤独を味わえば、新境地が開けて第二の三島文学がもたらされたかもしれないと、円地文子と同様の想像や願望を述べつつ三島を評伝し、『荒野より』のテーマと繋がる評論『小説とは何か』と未完の『日本文学小史』の二つの遺作を論じている。
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文壇の反響・同時代評価
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『英霊の聲』に対する時評や合評では、作品がイデオロギー的な側面や天皇批判を含んでいるために、部分的には共感を持てるという意見もありながらも、全面的な賛意を積極的に示す評価は少ない。 花田清輝は、右翼の側からの天皇批判として一定の評価をしながらも、ふざけているといった否定的な発言もし、江藤淳は、「イデオロギー的」であり、「妙に猥褻」と評している。石原慎太郎は、世俗を拒否する三島の方法論が、歴史に乗り出すのは誤りだと評している。 村松剛や奥野健男は、一定の理解を示して三島の意図を汲み取ろうとし、饗庭孝男は、英霊の〈復権〉は不可能であるがゆえに美しいと論考している。葦津珍彦は、兵士の霊が慰められ名誉が回復されなければならないゆえに、作品意義があると高評価している。 山本健吉は、戦後民主主義の「空虚な偽善」、「厭うべき低俗」を批判しようという三島の創作動機に同意しつつ異論も交えて以下のように評しながら、二・二六事件の将校や特攻隊の「心情と行動」を素直に愛惜できない現代人の「心の卑俗さ」に比して、白虎隊士の心情や行動力の方が「はるかに立派だった」と述べている。 一たび神性を棄てられた天皇を、国民はもう一度神に復帰させることはできない。その不可能を作者は知りながら、あえて書いたとすれば、それは作者の考える今日の状況の絶望の度の大きさを物語るものだろう。その空虚を、民主主義という護符で埋められると思っている知識人たちののんきさが、氏にはいらだたしいのだろう。だが若い英霊たちの復権を訴えようとする時事的な姿勢のせいか、これは三島氏の小説としては想が痩せている。私にはこれは、天皇制の問題でなく、宗教の問題だと思っている。 — 山本健吉「文芸時評」
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