指針の修正と根本的な輸送力増強策
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「上尾事件」の記事における「指針の修正と根本的な輸送力増強策」の解説
一連の暴動の後の1974年(昭和49年)11月8日、国鉄首都圏本部は「首都圏通勤交通現状打開のための提言」を発表した。そこでは次のように謳われている。 III 国鉄が今後行なうべき諸施策について(前略)第四に、異常時に対する配慮を国鉄は積極的に推進する必要がある。異常時発生の場合の旅客の心理的不安を念頭におき、ラッシュ時の混雑の限界基準、旅客制限策、異常時における無線による乗客への列車運転情報の提供を検討することが必要である。このことは、国鉄の能力、提供し得るサービスの限界を利用客に理解してもらうことにもなるし、新しい交通体系整備の必要性につき、社会一般の認識を高めることにも役立つと考えるからである。IV 国が果すべき役割と施策について(1) 通勤交通体系の計画は住宅地開発計画、都市計画、都市再開発計画、地域開発計画などとの連係のもとに総合してたてられなければならない。従来ややもすれば、輸送力と無関係に、大規模住宅開発計画が進められ、通勤輸送に大きな混乱を引き起こして、また、そのあと処理を鉄道が自衛的に引受けることになった例が多いが、そのようなことは避けなければならない。(後略)(2) 各交通体系の建設コスト、運営の費用を、大きな開発利益をうける沿線の住民、土地所有者、集中の利益をうける都心の事業所、直接の受益者である利用者がそれぞれの受益に応じて、校正に負担すること、また、各交通機関間にも通路費など基礎施設費の負担の公平を期し、バランスのとれた交通体系の実現をはかることが必要である。このため、税制、政府資金の運用による財政措置、運賃制度などを効果的に考えるべきである。(後略)VI 利用客及び関連する企業の協力について(1) 地域別、線路別に輸送力に限界のあることを利用客にも良く認識してもらうことが必要である。効果は小さいようでも時差通勤、通学の奨励と話し合いを今後とも行うべきである。特に、高等学校の登下校の時間については国鉄と密接に協議してもらいたい。(2) 都心における中枢管理機能の集中は、年々通過交通を激増させ、その混雑打開のために多大のコストを必要とするにもかかわらず、コストの負担は必ずしも適正ではない。勤労者の交通上のコストは、企業よりも国鉄やその他の大量輸送機関が多くを負担している現状である。一方、通勤定期運賃は企業が負担する傾向にあるので、都心部に向う大量の通勤需要を発生する企業については現在の割引制を廃止して、その全額を企業が負担することも考えられる。(後略) — 「国鉄首都圏交通体制調査会 首都圏通勤交通現状打開のための提言」 当時国鉄は労働問題のほかNIMBY化した住民運動にも手を焼いており、調査会会長としてこの提言を取りまとめた磯村英一、また建設畑出身で当時国鉄技師長の地位にあった瀧山養は野放図な住民運動には批判的な考えの持ち主だった。また、高崎線の至近には東京都心と埼玉県南部を結ぶ通勤路線として埼京線(東北本線支線赤羽駅 - 武蔵浦和駅 - 宮原駅間)が計画されつつあった。事件当日の新聞で背景に触れた際にこのことは触れられていたが「国鉄は通勤新線を計画しているが、大宮以北はまた冷遇されそう」と結ばれ、事件直後のサンケイ新聞の取材では加賀谷朝雄経理局長は(安い運賃負担しかしていない)「通勤定期の利用者のために、しかも朝夕の限られた時間帯のために、新たな路線を設けるなど、今後の通勤対策の投資は、ひとり国鉄のためだけの企業ベースでは出来ません。」と回答していた。 実際には、1973年(昭和48年)当時、東北・上越新幹線反対運動への対策として、国鉄建設局の側から岡部達郎のアイデアによって都市施設帯(事実上の環境対策のスペース)付きで後に埼京線と呼称されるようになる通勤新線の建設案が提示されていた。しかし、一部反対派による賛成派地権者への脅しや、最大2,000名に上る運動員の動員により実施された国鉄への示威行為により、地元との関係は冷え切っていた。 高崎線は通勤通学人口の増加により営業係数でも常に上位にランクするなど国鉄経営への貢献の大きな線区のひとつであり、事件後も輸送人員は伸びを続けていたが、反面、輸送力の増強策は追いついておらず、1980年代初頭でも280%余りの混雑率を記録していた。 そのような状況を横目に、埼京線の建設で見られた反対運動は順次収束して行き、工事も進んでいった。このことは高崎線沿線からの混雑緩和への期待感となって現れ、新聞でも報じられている。埼京線は1985年(昭和60年)9月30日に開業している。高崎線への直通列車は設定されなかったが、大宮以南の通勤需要は同線に大きく吸収され、並行各線の混雑緩和に貢献した。 なお、上記情報システム開発の課題として、佐藤金司は国鉄幹線で長距離旅客列車が多数運行されていることを挙げていた。しかし、高崎線では1982年(昭和57年)の上越新幹線の開業で上越線経由の昼間特急列車を大幅削減し、1997年(平成9年)の北陸新幹線一部先行開業および在来線の路線分断で信越本線直通の特急列車は全廃された。また、高崎線を通る北行のブルートレインも航空機などの輸送手段の発達により逐次縮小・廃止されていった。これらの廃止で生み出された線路容量の余裕は専ら通勤列車の増発に活用された。 なお、上尾市の人口は事件後も増加を続け2007年(平成19年)には約22万人を数えている。
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