強制流通と粛清
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/12 18:16 UTC 版)
フランス革命では、財政問題は、憲法制定議会、立法議会の内閣および国民公会の臨時行政会議、総裁政府を通じて、ほぼ一貫して財政委員会(Comité des Finances)で討議され、議長を務めたジョゼフ・カンボン、ドミニク=ヴァンサン・ラメル・ノガレ (Dominique-Vincent Ramel-Nogaret) のような平原派またはマラルメ (François René Mallarmé) のような中道的な立場の議員らによって主導されていた。中間の派閥はすべての議会で最多数派を構成し、彼らは革命を支持するブルジョワジーの代弁者としての背景を持っていたが、同時にブルジョワジーは一枚板ではなく、その利害は多様で、対立と分裂を繰り返す政局では日和見的態度をとることが多かった。 立法議会では、カンボンらはアッシニアの乱発はできれば避けたかったので、ジロンド派と協力して発行量を制限するために債権を精査して、疑わしいものは支払いを停止しようとした。しかし旧特権階級に属する上流ブルジョワジーの利益を代表するフイヤン派は、旧体制での債権の償還を優先して、決定は議会で覆された。これは旧体制に根付いた既得権益が、アッシニア下落の危険という国益の毀損よりも、優先された結果であった。しかし他方では、ジロンド派は開戦に踏み切ったので、前述のように軍事費が緊急に必要になった。財源不足により、1万リーヴル以上の国庫債権の償還は一時停止された。カンボンは1792年11月の予想収入は2,800万リーヴルに留まり、支出は1億3,800万リーヴルであろうと公表し、さらに翌12月は軍事費だけで3億2,800万リーヴルも必要になった。もともとは債務の償還のためのアッシニアであったが、今や償還はストップされ、赤字支出の補填のために増刷されることになった。もはや本来の目的を外れたアッシニアはどんどん刷られ、その価値はどんどん下落していったのである。 8月10日事件後、国民公会になってフイヤン派は一掃されるが、今度はジロンド派と山岳派との抗争が始まった。サン・キュロット勢力の突き上げをうけた国民公会は、アッシニア下落への対策を求められた。そこでカンボンは、1793年4月8日、アッシニアの強制流通、受け取り拒否への罰則、貴金属の国外持ち出し禁止、貴金属の売買禁止、証券市場取引の禁止の5つの方針を提案した。ジロンド派は商業の自由の侵害であると反対したが、4月11日に強制流通法案は可決された。以後、貴金属の売買は禁固6年の実刑となり、アッシニアの受け取りを拒否した者には同額の罰金が科されることになった。しかし強制流通だけでは、増発されたアッシニアの信用力を回復することはできなかった。カンボンはこの時の国有の流動資産を46億リーヴルと評価していたが、流通額とバランスを取る必要があった。国内の信用力の低下に対して早く紙幣を回収してインフレ抑止策を講じるべきであるという山岳派の予てからの主張が再び議題にあがった。ジロンド派は抵抗したが、内務大臣ガラー (Dominique Joseph Garat) のもとには視察官からブルターニュ地方の農村部では農民が王の肖像が入っている旧アッシニアを買い占めて共和国の新アッシニアは強制された場合でなければ受け取らないという事態が発生していると報告を受けるなど、混乱は思いがけないところで波紋を広げていた。 5月20日、ラメルが10億リーヴルのアッシニアを回収する累進強制公債を提案した。これは年収600リーヴル以下のものを免税とし、年収1,600リーヴルまでの者には50リーヴル、年収2,600リーヴルまでの者には110リーヴル、年収3,600リーヴルまでの者は210リーヴルを課す・・という具合に、累進税率の公債を強制的に割り当てるものであった。カンボンもこれに賛成して、富裕者から革命のための資金を一時的に提供させる愛国的な革命税(戦争税)であると主張し、山岳派の面々も口々に賛意を示した。ジロンド派はこれはサン・キュロットは一銭も払わない富裕者を標的にした不平等な法律であると激しく反対したが、結局法案は内容が曖昧なまま原則のみで可決された。怒ったジロンド派は十二人委員会で山岳派を押さえようとして、エベール派(矯激派)が扇動するサン・キュロットの蜂起を誘発し、それで失脚することになった。また性急なパリ・コミューンは監視委員会に命じて24時間以内に強制公債を徴収するように勝手に指令を出したが、リヨンでもデュボワ・クランセ (Edmond Louis Alexis Dubois-Crancé) ら3名の派遣議員が強圧的な方法で3,000万リーヴルを超える徴収を行って市政の反乱を引き起こした。 ジロンド派追放後、山岳派と平原派で6月22日に累進強制公債の課税最低限を年収1万リーヴルに引き上げる修正案を可決した。これで課税対象は完全に裕福な金持ちに限定されることになったばかりか、累進税率は地方自治体や派遣議員の裁量に任されることになったので、経済テロルが始まった。また少数の派遣議員や自治体の長に(課税対象者の選定と課税額の設定という)極大な権限を与えたために、保釈金目的で金持ちの家族を逮捕し、革命税を取るという汚職や不正も広がっていった。また7月、前述の値上がり傾向を見せていたルイ16世の肖像が印刷された100リーヴル以上の旧アッシニアから強制通用力を奪い、非紙幣化して約6億リーヴルが流通から排除された。それらは今後は納税と国有財産の支払いにのみ使用を許されることになった。 8月24日、カンボンは有価証券がアッシニアと競合して下落に拍車をかけているとして、割引銀行や生命保険会社などの株式会社の解散を命じた。会社に対する厳正な課税の方針に改められたのもこの頃で、インド会社汚職事件が明るみに出た。ジロンド派だけでなくダントン派(寛容派)とも結びついていた御用商人デスパニャックの逮捕によって、粛清へとつながる激しい内紛が山岳派とエベール派で始まった。 インフレが深刻化すると、アンラジェ(過激派)やエベール派が台頭し、革命は極左的傾向を見せるようになったが、一般最高価格法や強制挑発による恐怖政治の統制経済は、一時的な安定をもたらした。紙幣の増発を続けていたにも関わらず、下落は1793年9月には止まり、11月からは上昇に転じたからである。11月26日に可決された貴金属流通の禁止によってアッシニアの強制流通が徹底され、さらに相次いで、亡命者親族財産・敵国外人所有財産・死刑判決受刑者財産・新占領地ベルギーの貴族と教会財産が没収されて国庫に編入されたことで信用力が高まり、12月にはだいたい額面の半分までに回復した。しかし強制的な価格設定と徴発は、長期的には物資不足に拍車を掛けるという矛盾した結果になったので、しばらくするとまたアッシニアの下落が始まり、1794年の春には食糧危機が再燃した。また貴金属流通の禁止と、貴金属をアッシニアと交換するという派遣議員らの強制措置は、単に全国的な金銀の隠匿を加速させ、腐敗の温床となり、地下経済を成長させただけであった。これらの社会政策的な対策としてヴァントーズ法を実際に施行しようとし、かつ派遣議員の腐敗の粛正を目指したロベスピエール派が、山岳派主流派から分裂して、平原派が後者へと鞍替えしたことでクーデターへと発展した。 テルミドール反動が始まると、国民公会はブルジョワジーの側が有力となって、商業と産業の自由が復活することになったが、これによって経済の状況は益々悪化した。12月24日に一般最高価格法が撤廃され、12月27日にはボワシ・ダングラ (François Antoine de Boissy d'Anglas) によって統制の解除が宣言された。1795年1月31日には外国貿易禁止も撤廃された。これによって食料品と賃金、消費物資の物価が急激に値上がりした。 テルミドール派は1795年1月に一気に70億リーヴルのアッシニア発行を許可し、アッシニアの価値は1月だけで10.5%下落した。以後も下がり続け、投機が盛んになったことで、3月末のジェルミナールの暴動の直前には、額面100リーヴルのアッシニアが実質価値12リーヴル15スーとなっていた。これは3月の1ヶ月間だけで46.5%も下落したことを意味する。9月には額面100リーヴルの実質価値はわずか3リーヴル15スーであった。総裁政府のハイパーインフレ対策は印刷機のフル回転であったから、減価すればするほど発行量は際限なく増えていき、発行量が増えるほど減価は進んだ。5月には流通高は114億リーヴルに達し、国家の流動資産は多く見積もっても150億リーヴルと評価されたが、年末までにはその倍の300億リーヴル以上もの大量の紙幣が流通していた。 この時、国内で物資が欠乏していたわけではなかったが、異常な物価高と投機、買占め行為が、経済を麻痺させた。経済が破綻した総裁政府期には貧民の蜂起が相次いだが、恐怖政治期と違ったのは、これを軍隊が鎮圧したことであった。諸制度はジロンド派追放以前へと戻され、プレリアールの蜂起が鎮圧された後には、ブルジョワジー支配の復権はより明らかになった。山岳派は壊滅し、同派と関係が深いと見なされた政治家たちが次々と追放された。財政委員会でもカンボンが失脚し、ジャン=ジョゼフ・ジョアノ(Jean Joseph Johannot, 1748-1829)に指導権が移った。
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