アッシニアの下落
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アッシニア紙幣は正貨に対して価値が弱いという問題は、ピエール=サミュエル・デュポン・ド・ヌール (Pierre Samuel du Pont de Nemours) 議員らによって発行前から指摘されていた。しかしミラボーらはこの懸念を一蹴し、政府は軍隊や官僚などの給与支払いにエキュ銀貨のような低額硬貨をすぐに大量に必要としたので、正貨を回収するためには、むしろ率先して損をしてまでアッシニアと交換した。ルイ金貨とアッシニアの取引所は政府に許可されて上場され、投機が始まった。プレミアムは最初は6 - 7%であったが、すぐに10%、15%、20%と増えていった。 政府は正貨の回収を優先し、この合法的なインフレを放置した。十分な強制通用力は与えられていなかったので、利用者が選択すればいいと言う程度だったが、これは明らかに見込みが甘かった。 流通量の増加はアッシニアの価値を急速に下落させた。憲法制定議会は1791年5月18日に6億リーヴル、翌月には5リーヴルの少額紙幣で1億リーヴルの追加、ヴァレンヌ事件の前日の6月19日には様々な額面で計4億8,000リーヴルの発行を許可した。フイヤン派が主導した立法議会は、旧体制の債権の償還に忠実で、清算のためにアッシニアと国家債券が次々と発行された。12月17日に3億リーヴル、翌1792年4月30日に3億リーヴルと増刷し、この間に回収できたのは3億7,000万リーヴルに限られた。さらに5月17日には9億8,000リーヴルを増刷した。ジロンド派の内閣の財務大臣エティエンヌ・クラヴィエール (Étienne Clavière) は乱発に制限を加え、発行と回収のバランスを取ろうとしたが、議会に拒否された。 議会は、しばらく一般消費者に流通する少額の補助紙幣の発行に躊躇したが、当時のフランスでは増加の一途を辿った亡命によって海外に正貨が流出し、銀貨や銅貨という少額の硬貨こそが極端に不足していて、少額のアッシニアの発行もまた避けられなかった。ジロンド派は亡命貴族と王族の財産を没収する法案を可決させ、貴金属を押収しようとしたが、今度は国王の拒否権にあって施行できなかった。これを補うためにはもはや小額紙幣をさらに増刷する以外にはなかった。高額アッシニアと少額アッシニアとの間にもプレミアムが発生した。1791年から発行された50, 25, 15, 10, 5リーヴルの各紙幣は、より高額なアッシニアとの交換で額面が高い方にプレミアムが付き、少額なほど不人気だった。 一方で、議会が少額のアッシニアの発行に躊躇していた間にも、少額の取引は必要であったので、大商人や銀行家は議会を真似して、個人で1スー銅貨などを鋳造したり、各々銀行が独自で低額の信用紙幣を発行し始め、一般消費者に流通させていた。対立する紙幣の登場はそれだけでアッシニアの価値を貶めたが、商人や銀行家たちは、補助通貨や信用紙幣との交換で集めたアッシニア資金を先物取引などの投機市場に投じたり、値上がりを予想した物資(穀物、小麦粉、砂糖など)を買い漁って倉庫に貯蔵した。いわゆる買占め人の登場である。これによって物価は益々高騰し、アッシニアの価値は益々下がった。暴利を得た買占め人がいた一方で、いくつかの銀行や何人かの投資家はこの投機に失敗して破産したが、その信用不安もアッシニアに還元された。1792年は久しぶりの豊作であったにもかかわらず、農民も小麦を市場に出して下落するアッシニアと交換するより、取っておく方を選ぶようになった。こうなると供給不足は物価の高騰を加速させ、相互作用の悪循環を生んだ。アッシニアの下落もパンの不足も、これを受け取る賃金労働者などサン・キュロットにとっては大迷惑で、市場には硬貨価格とアッシニア価格の二つの値札がすぐに登場した。アッシニアの下落は市民生活に直接被害を与えることになり、サン・キュロットは商人への怒りを募らせていった。公安委員会はエベール派の圧力を受けて、1793年に一般最高価格法を導入したが、これは減価に対しては効果がなかった。アッシニアは未売却国有地の収穫物をも抵当としていたので、一般最高価格法によって農産物の価格が抑えられると、抵当価値が制限されるだけでなく、国有地に買手がつかなくなる恐れがあったためである。 戦争が始まる前の段階で、市場には35億リーヴル以上のアッシニアが流通していた。すでに教会財産の大半は売却を済ませていたので、1791年11月9日に成立したがそのときは国王拒否権で施行できなかった亡命者処罰法による没収財産(約20億リーヴル)が財源とされ、さらにマルタ騎士団の4億リーヴルも窃取されて予備金とされた。しかし革命戦争が始まると軍事費は莫大な額となり、対して期待した占領地での臨時税は微々たるものであったので、さらなるアッシニアの増刷が必要となった。1792年の最後の4ヶ月だけで32億3,700万リーヴル、1793年は36億8,600万リーヴル、1794年は41億9,000万リーヴルが発行された。これは担保割れの状態であり、こうなるとアッシニアの価値の下落には歯止めがかからなくなった。1792年の春、アッシニアの減価は国内では25 - 35%であったが、外国為替市場ではすでに50 - 60%に及んだ。すでにネッケル時代にアメリカ独立戦争の戦費調達で国債を外資に大量に販売していたため、旧体制債務の支払いでアッシニアが外国でより多くだぶついていたからである。その後、貴金属貨幣の売買が禁止され、為替や手形その他のすべての証券を市場で取引することを禁止してアッシニアの強制通用力が強化されたが、必要から闇取引が横行して減価は収まらず、1793年末には国内での減価は65%に及んだ。テルミドールのクーデターが起こるまでの間におよそ110億リーヴル以上のアッシニアが流通していたが、この間、回収して焼き捨てることができたのは、1793年に8億8,100万リーヴル、1794年に20億リーヴルに留まった。 他方、外国の陰謀もアッシニアの下落を助長した。コブレンツに逃げた亡命貴族の中に元財務総監カロンヌがいたが、彼はルイ16世の信任を受けて反革命運動を行っていた。その策謀として工場で大量のアッシニア偽札を作って市場に投入し、革命政府を崩壊させる意図でばらまいた。この偽札政策は後にはイギリスにも継承された。1794年まではフランス国内で偽札が印刷され、反革命の資金源となったが、弾圧を受けて、翌年からは印刷場所をロンドンに移した。オッシュ将軍が阻止した1795年7月16日 - 21日のキブロン上陸のときには、このロンドン産の数十億の偽アッシニアが押収されたが、皮肉にもこの頃には価値の下落のスピードの方が早く、偽札は効果を発揮しなくなっていた。
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