アッシニアの下落とは? わかりやすく解説

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アッシニアの下落

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/12 18:16 UTC 版)

アッシニア」の記事における「アッシニアの下落」の解説

アッシニア紙幣正貨に対して価値が弱いという問題は、ピエール=サミュエル・デュポン・ド・ヌール (Pierre Samuel du Pont de Nemours) 議員らによって発行前から指摘されていた。しかしミラボーらはこの懸念一蹴し政府軍隊官僚などの給与支払いエキュ銀貨のような低額硬貨をすぐに大量に必要としたので、正貨回収するためには、むしろ率先して損をしてまでアッシニア交換したルイ金貨アッシニア取引所政府許可され上場され投機始まったプレミアム最初6 - 7%であったが、すぐに10%15%、20%増えていった。 政府正貨回収優先し、この合法的なインフレ放置した十分な強制通用力与えられていなかったので、利用者選択すればいいと言う程度だったが、これは明らかに見込み甘かった流通量増加アッシニア価値急速に下落させた。憲法制定議会1791年5月18日に6億リーヴル翌月には5リーヴル少額紙幣1億リーヴル追加ヴァレンヌ事件前日6月19日には様々な額面で計4億8,000リーヴル発行許可したフイヤン派主導した立法議会は、旧体制債権償還忠実で、清算のためにアッシニア国家債券次々と発行された。12月17日に3億リーヴル、翌1792年4月30日に3億リーヴル増刷し、この間回収できたのは3億7,000リーヴル限られた。さらに5月17日には9億8,000リーヴル増刷した。ジロンド派内閣財務大臣エティエンヌ・クラヴィエール (Étienne Clavière) は乱発制限加え発行回収バランス取ろうとしたが、議会拒否された。 議会は、しばらく一般消費者流通する少額補助紙幣発行躊躇したが、当時フランスでは増加一途辿った亡命によって海外正貨流出し銀貨銅貨という少額硬貨こそが極端に不足していて、少額アッシニア発行もまた避けられなかった。ジロンド派亡命貴族王族財産没収する法案可決させ、貴金属押収しようとしたが、今度国王拒否権にあって施行できなかった。これを補うためにはもはや小額紙幣をさらに増刷する以外にはなかった。高額アッシニア少額アッシニアとの間にもプレミアム発生した1791年から発行され50, 25, 15, 10, 5リーヴル各紙幣は、より高額なアッシニアとの交換額面が高い方にプレミアム付き少額なほど不人気だった。 一方で議会少額アッシニア発行躊躇していた間にも、少額取引は必要であったので、大商人銀行家議会真似して個人で1スー銅貨などを鋳造したり、各々銀行が独自で低額信用紙幣発行し始め一般消費者流通させていた。対立する紙幣登場それだけアッシニア価値貶めたが、商人銀行家たちは、補助通貨信用紙幣との交換集めたアッシニア資金先物取引などの投機市場投じたり、値上がり予想した物資穀物小麦粉砂糖など)を買い漁って倉庫貯蔵したいわゆる買占め人の登場である。これによって物価益々高騰しアッシニア価値益々下がった暴利得た買占め人がい一方でいくつかの銀行何人かの投資家はこの投機失敗して破産したが、その信用不安アッシニア還元された。1792年久しぶり豊作であったにもかかわらず農民小麦市場出して下落するアッシニア交換するより、取っておく方を選ぶようになった。こうなると供給不足物価高騰加速させ、相互作用悪循環生んだ。アッシニアの下落もパンの不足も、これを受け取賃金労働者などサン・キュロットにとっては大迷惑で、市場には硬貨価格アッシニア価格二つ値札がすぐに登場した。アッシニアの下落は市民生活直接被害与えることになり、サン・キュロット商人への怒り募らせていった公安委員会エベール派の圧力受けて1793年一般高価格法を導入したが、これは減価に対して効果がなかった。アッシニアは未売却国有地収穫物をも抵当としていたので、一般高価格法によって農産物価格抑えられると、抵当価値制限されるだけでなく、国有地買手がつかなくなる恐れがあったためである。 戦争が始まる前の段階で、市場には35億リーヴル上のアッシニア流通していた。すでに教会財産大半売却済ませていたので、1791年11月9日成立したそのとき国王拒否権施行できなかった亡命者処罰法による没収財産(約20リーヴル)が財源とされ、さらにマルタ騎士団の4億リーヴル窃取されて予備金とされた。しかし革命戦争が始まると軍事費莫大な額となり、対して期待した占領地での臨時税は微々たるものであったので、さらなるアッシニア増刷が必要となった1792年最後の4ヶ月だけで32億3,700リーヴル1793年36億8,600リーヴル1794年41億9,000リーヴル発行された。これは担保割れの状態であり、こうなるとアッシニア価値の下落には歯止めがかからなくなった1792年の春、アッシニア減価国内では25 - 35%であったが、外国為替市場ではすでに50 - 60%に及んだ。すでにネッケル時代アメリカ独立戦争戦費調達国債外資大量に販売していたため、旧体制債務支払いアッシニア外国でより多くだぶついていたからである。その後貴金属貨幣売買禁止され為替手形その他のすべての証券市場取引することを禁止してアッシニア強制通用力強化されたが、必要から闇取引横行して減価は収まらず、1793年末には国内での減価65%に及んだテルミドールのクーデターが起こるまでの間におよそ110億リーヴル上のアッシニア流通していたが、この間回収して焼き捨てることができたのは、1793年に8億8,100万リーヴル1794年20リーヴルに留まった。 他方外国陰謀もアッシニアの下落を助長した。コブレンツ逃げた亡命貴族中に財務総監カロンヌがいたが、彼はルイ16世信任受けて反革命運動行っていた。その策謀として工場大量アッシニア偽札作って市場投入し革命政府崩壊させる意図ばらまいた。この偽札政策は後にはイギリスにも継承された。1794年まではフランス国内で偽札印刷され反革命資金源となったが、弾圧受けて翌年からは印刷所をロンドン移したオッシュ将軍阻止した1795年7月16日 - 21日キブロン上陸ときには、このロンドン産の数十億の偽アッシニア押収されたが、皮肉にもこの頃には価値の下落スピードの方が早く偽札効果発揮しなくなっていた。

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