アッシニアの廃棄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/12 18:16 UTC 版)
1795年4月7日、国民公会末期において、従来のトゥール・リーヴル貨 (Livre tournois) に代わって十進法を用いるフランを通貨単位とすることが決まった。これに伴い、新アッシニアも額面表記がフランとなったが、旧紙幣も依然として流通していたので、リーヴルとフランは混在することにもなった。4月15日、株式市場が再開され、国債の利子支払い停止や、3,000リーヴル以上の年金の切り捨てといった政策は撤回され、支払いが再開された。4月26日、処刑されたジロンド派議員の遺族には年2,000フランの救助金が支払われることになった。5月4日、すべての商業取引所が再開された。6月2日、国有財産を正貨を基準にして売却することが決められ、1790年時の年収の75倍を払うという条件で競売なしの、非常に低い価格でブルジョワジーに売却されるようになった。6月9日、革命裁判所の裁定およびヴァントーズ法で没収された被処刑者の財産を、その相続人に返還する法令が可決された。6月21日、アッシニアを2/25に切り下げるデノミネーションを行った。100フラン・アッシニアが8フラン・アッシニアと同額とされたが、これはインフレを追認するものであり、物価の暴騰とインフレは逆にさらに拡大した。紙幣の維持は事実上困難であったことから、7月22日に締結されたバーゼル条約で(ヨーロッパの銀の供給源であった)スペインとの講和が成立したことを受けて、8月15日、フラン銀貨を基軸とする銀本位制が復活され、再び通貨が表経済でも流通を始めた。 10月26日、総裁政府が動き出した時、アッシニアのインフレーションは末期症状に達していた。24フランのルイ金貨は取引所において相場価格2,500フラン・アッシニアを示し、一時間毎にその値段は更新されていたから、四日後には3,400フラン・アッシニアになっていた。1795年10月30日の100フラン・アッシニアは、70サンチームの価値しかなかった。総裁や議員、政府幹部への俸給の現物支給が始まり、租税と小作料も半分は現物支払いとする命令が出された。しかし現物を受け取れない公務員の中には生活に困窮する者が現れ、生活のために不正や汚職が横行するようになった。その後、公務員の俸給はインフレ率と同じだけ昇給されるように改められ、優先的に配給を受けられたが、アッシニアしか受け取れない寡婦や退役兵といった年金生活者は極貧状態に陥った。悪いことに1795年は厳冬で、18世紀中で最も低い平均気温を記録した。配給にありつけなかった多くは餓死した。 アッシニアの価値が余りに下落したため、経済はその後も麻痺状態が続き、全国で抗議のストライキが頻発した。これはアッシニアの印刷工場も例外ではなかった。国民公会は最後の日である1795年10月25日にジャン=フランソワ・ルーベルによって発議された、連帯責任制の厳しい罰則を含む新しい戦争税法案(ブリュメール23日法)を可決させていたが、総裁政府は全国的な反対にあって実施できなかったので、財源不足に陥った。五百人会では、貧困層を支持基盤とする左派は革命紙幣の立て直し(アッシニア回収)を望んでいて、再び恐怖政治時代のような累進課税を提案したが、富裕層を支持基盤とする右派の反対にあって否決された。そこで左派は流通する300億フラン分のアッシニアを10億フラン分の抵当権と3%の利子付き約束手形で交換するデフレーションを提案した。これは五百人会は通ったが、元老会で否決された。11月21日、ともかく無価値なアッシニアで国有財産がこれ以上奪われるのを防ぐため、国有財産の売却が停止された。 12月6日、当座の運用資金にも困った総裁政府は「財政の緊急再建に関する総裁政府の覚書」を五百人会に提出した。ここに提案されたのはラメルの案で、6億フランの正貨を生み出そうという強制債券(資本に対する累進課税)であり、当初の計画では全納税者の5分の1を12等級に分けて100フランから1,200フラン負担させるものであった。五百人会は対象者を全納税者の4分の1に拡大させ、16等級とし、50フランから1,600フランまで負担させる修正をして可決し、元老会もこれを承認した。この強制債券の領収証は、他の全ての税の納税証明とみなすこととされ、前述の戦争税は施行されることなく廃止された。しかし強制債券の収入を実際に政府が手にするのはまだ先であったので、その間までのつなぎとして支払命令書(Rescriptions)を一種の国庫証券として発行し、前借りしたが、総裁政府に対する不信は相当のものであったので、これもみるみるうちに下落して、翌年1月には35%、3月には80%下落した。この地に落ちた総裁政府の信用を多少なりとも救ったのが、直後に始まるイタリア遠征でのボナパルト将軍の勝利と、イタリア諸邦に課した高額の金品・美術品などの賠償金の獲得であった。 12月14日、アッシニアのこれ以上の下落を阻止するために、取引所が約一年を経て再び閉鎖された。12月23日、アッシニア紙幣の新規発行を停止した。12月27日の法令では、納税は税額の半分を正貨で、残り半分は1対100の比率でアッシニアで払うこととされた。これはアッシニアの流通価格を法定価格の100分の1と法律で認めたことを意味し、バブーフは『護民官』紙上でアッシニアに最後の引導を渡す行為であると激しく批判したが、一方で市場価格よりも約10倍は高いレートであったので、高額納税者には有利な裁定でもあった。 国内では依然として正貨は不足しており、総裁政府は、新しい紙幣を模索し始めた。そこで振出銀行(Banques d'émission)を創設して、国家がこの銀行に一定量の国有財産を担保として提供し、それを基に発行される銀行券を流通させ、振出銀行に毎月国家に正貨で2,500万フラン相当を返済させるという計画を打ち出した。この法案は五百人会を通過したが、諸新聞が銀行家が国家を乗っ取ろうとしていると騒ぎ立てて猛反発したために、元老会で否決されて頓挫した。 他方で強制債券の取り立てが始まると、様々な弊害が発生した。この新税を負担する納税者リストの作成は県当局に任されていたが、公平には行われず、旧ジャコバン派に過重に負担させ、保守派や旧王党派の負担は軽減された。不承不承、取り立てを実際に行わなければならなかった市町村当局は、理由をつけて意図的に業務を遅延した。催促にきた政府委員は脅迫をうけたり、なかには殺害された者もいた。アッシニアは下落しつづけていたから、待てば待つほど、納税負担は減ったからである。そしてようやく徴収できた頃には集まった額は政府の期待を遙かに下回り、必要の半分しか集まらなかった。 アッシニアはもはや紙切れ同然であった。総裁政府はアッシニアを完全に諦め、1796年2月19日、ヴァンドーム広場でこれ以上刷らないことを誇示するためにアッシニアの印刷銅板を衆人環視のもとで焼却した。そして3月10日にはアッシニアの廃止を宣言するに至った。国庫に残っていた15億のアッシニアも焼却された。しかし貨幣としての機能を失って流通する340億フランのアッシニアは未回収で残された。3月18日、総裁政府は新紙幣としてマンダ・テリトリオを新たに発行して、アッシニアと交換させることでその回収を目指したが、これもやはりインフレを起こし、土地競売でも社会問題に発展した。1797年2月7日、1年持たずにマンダ・テリトリオは廃止された。 1797年3月21日より紙幣の流通は法律で禁止されたが、総裁政府は、すべての紙幣を失うわけにはいかなかったので、アッシニアの廃棄を徹底させず、意図的に回収を遅らせていた。4月4日、共和国5年の選挙で王党派が躍進したことから、6月23日、右傾化しいた両院は国家の負債を整理して、1791年1月1日以前に契約されたすべての旧体制の負債は全面的に返済すべきことを規定し、残りの負債については各県のアッシニア公定相場に応じて支払われることを定めた。フリュクティドールのクーデターで両院から王党派が追放された後、1797年9月30日、財務大臣ラメルの提唱する公債3分の1化政策(dette publique d'un tiers)が採用された。これは旧体制より引き継いだ負債の3分の1については債権者は正貨で支払いを受けられるが、残りの3分の2については国有財産であてるとして購入用に、約束手形か、アッシニア、マンダ・テリトリオ、支払命令書、あるいは3分の2債券のいずれかで支払うこととして、その受け取りを強制するというものであった。この結果、政府債務は4分の1近くに減少し、一方で債務者も3分の1は正貨を確保でき、かつアッシニアの当面の流通を堅持できるという意味でネオ・ジャコバンからも好意的に評価された。しかし3分の2債券での国有財産買取りは実際には行われず、換金相場もすぐに暴落したことから、3分の2破産政策とも揶揄されるようになり、債権者に不満が残った。これは総裁政府をブルジョワジーが見限った遠因の一つであった。いずれにしても、このような事情で、アッシニアの回収・破棄は、遅遅として進まなかった。総裁政府末期には、正貨経済になって通貨供給量が急激に減少した結果、デフレーションが進行する逆転現象が起き、アッシニアは消滅してもなお市民生活を逼迫させた。
※この「アッシニアの廃棄」の解説は、「アッシニア」の解説の一部です。
「アッシニアの廃棄」を含む「アッシニア」の記事については、「アッシニア」の概要を参照ください。
- アッシニアの廃棄のページへのリンク