国学の展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 04:39 UTC 版)
江戸時代中期に入ると、儒家神道に代わり国学が隆盛するようになる。国学の源流は、江戸時代初頭に中世的な歌学規範を否定して歌を詠んだ木下長嘯子、木瀬三之、戸田茂睡、下河辺長流、北村季吟などの歌人があげられるが、そういった歌学を発展させ、文献学的な手法で歌文の注釈を行なったのが、僧契沖である。契沖は、寺を点々としながら国典の研究に励み、『万葉代匠記』や『倭字正濫抄』などを著して歌学の実証的研究や仮名遣いの研究などの功績を残し、古典を儒仏の教義風の解釈によせて読解するのではなく、実証的に研究していくという手法を確立した。 契沖の跡を継いだのが、荷田春満である。荷田春満は伏見稲荷大社に祠官する東羽倉家に生まれ、その後江戸に下って講義を行なった。春満が直接契沖に弟子入りしたという事実はないが、春満の蔵書には『万葉代匠記』をはじめ契沖の書物が多数あり、自著の『万葉集僻案抄』などの万葉集注釈も大部分を契沖の読みに倣っているなど、契沖に大きな影響を受けている。春満は、『創学校啓』に見られるように歴史・有職故実・神学などを和学の名のもとに学派として組織化する意図があり、春満において、神道と(契沖らによる)語学研究が「国学」として統合に向かった。 賀茂真淵は、賀茂神社に祠官する賀茂氏の支流に生まれ、春満門下の杉浦国頭などに学んだ。後に京へ上り春満に直接弟子入りし、春満没後は国学者としての名声を高め、荷田在満の推挙により田安宗武に召し抱えられた。真淵もまた、万葉集の研究に取り組み、その一環として祝詞の研究も行い、『万葉考』『冠辞考』『祝詞考』などを著して注釈を行なった。そして、『国意考』では古語の研究から古意、古道へと展開する図式的な方法論を提示した上で、反儒教的で上代の日本を尊ぶ思想性を国学に付与した。その思想は、儒教はしいて人倫を説いたことにより逆に世に争いをもたらしたのに対して、上代の日本には「神」と「皇(すべらぎ)」への「二つのかしこみ」に収斂する「直き心」があり、あえて人倫を説かなくても自ずから社会は和らいでいたとし、その上代の心を実現するためには、万葉風の歌を学び、自ら詠んで歌の修練をする必要があるとして、歌を詠むことこそが国学の本義であるとした。しかし、その古道の内容については、真淵は断片的に、儒教の倫理との対比において述べているだけであり、老荘思想と一致するとも説いていて、古典から直接思想体系を導き出して組織神学を発展させるまでには至らなかった。 真淵の後を継いで国学を大成したのは、本居宣長であった。宣長は商家に生まれ、医学を修学する傍ら日本の古典や和歌に興味を持ち、医業を行いながら国学の研究に励んだ。34歳のときに生涯で唯一となる真淵との面会を果たして入門し、以後真淵が没するまで師事を続けた。宣長は、契沖以来の文献学・言語学を引き継ぐとともに、国学における神道神学の側面も大成した。宣長は、儒教の説く人倫は人々を支配するために聖人により作為された道であり、国の習俗が悪く治まりがたいのを、強ちに治めようとするために作為されたとした。また、「天」が常に聖人を支持して天子となすという儒教の天命思想は、国を奪って王となった者が自己を正当化するためのものだと批判した。一方で日本は、古代から儒教や仏教のような教えはなかったが、それは小賢しい教えがなくても、天照大御神の御孫が国をしろしめし、上から下まで乱れることなく天下が治まり皇統が伝わってきたからであるとし、日本には一々言挙げをしない真の道があったと主張、その根拠として日本では一度も王朝の交代がなかったのに対して、儒教の教えがあるはずの中国では何度も君主が殺害され王朝が交代してきたことをあげた。そして、そういった儒教仏教流の「漢意」を用いて神典を解釈するのではなく実証的に研究しなければならないとし、神道を仏教の教義や儒教の教義によせて解釈する仏家神道や儒家神道を強く批判した。 また、陰陽や理気などにより世界が生成されると説く朱子学の理学についても、聖人たちが自らの推測によって勝手に作り上げた空論であると批判した。天地を「おのずからなる道」とした老荘思想も批判し、天地の事象は全て神道の神々により司られており、神々が司る世にも悪事があるのは、悪神である禍津日神の働きだとして、神話を事実として捉え、理気論などのように天地の仕組みを理屈で解釈しようとすることは神に対する不敬であって、人が知るべき範囲を超えたものであるという不可知論を展開した。 神話の内容を事実とみなす宣長の神学に対しては、同じ国学者からも批判があり、富士谷御杖は、和歌や神話の言葉は、言霊の霊力を帯びた日常言語と異なる言葉であるため、あるものを指しているように見えて異なるものを指しているとし、事実ではなく教典として理解するべきだとして宣長の古事記論を批判した。その他、橘守部、村田春海などからも神学において批判を受けた。 宣長以後、国学は各人ごとに研究領域が専門化していった。宣長の言語学・文献学の側面を受け継いだのは、伴信友、本居大平、本居春庭らである。他方で、「宣長死後の門人」として宣長に弟子入りした平田篤胤は、主として古道論や神学の側面を重視していった。
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