国学との出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 01:11 UTC 版)
上述のように、篤胤が江戸に出てきたのは必ずしも国学を学ぶためではなかった。その関心は広く、蘭学を吉田長淑に学び、解剖にも立ち合っている。他方、迫り来る対露危機に関しては、徹底した情報収集をおこなっている。 篤胤が本居宣長の名前と著作を知ったのは、宣長没後2年経った享和3年(1803年)のことであった。妻の綾瀬が求めてきた宣長の本を読んで国学に目覚め、夢のなかで宣長より入門を許可されたとしており、「宣長没後の門人」を自称した。これは時代の流行語となった。 文化2年(1805年)、篤胤は宣長の跡を継いだ長男の本居春庭に入門しており、夢中対面の話は春庭あて書簡に書かれている。篤胤は『直日霊』や『初山踏』『玉勝間』『古事記伝』など宣長の著作を読み、独学で本居派国学を学んでいった。篤胤の買い求めた『古事記伝』には、宣長門下服部中庸(なかつね)が著したダイヤグラム『三大考』が付録として付いていた。これは、10枚の図で「天・地・泉」の成り立ちを明示したものであり、のちに『霊能真柱』の著述におおいに活用されることになった。 このころ、芝蘭堂の山村才助が西洋・東洋の地理書を渉猟した本格的な総合的地理書『訂正増訳采覧異言』(1802年成立)を著し、長崎の蘭学者志筑忠雄による『暦象新書』(1798年-1802年)ではニコラウス・コペルニクスの地動説やアイザック・ニュートンの万有引力が紹介されている。新知識に貪欲な篤胤は、両書より強い影響を受け、世界認識の再構築をせまられた。そこで出会ったのが、宣長の国学だった。漢意(からごころ)を排除し、文献学的・考証学的姿勢に徹する宣長の方法によって、それまで仏教的・儒教的に牽強付会もともなってさまざまに説明されてきた古代日本のありさまが、見事に解明されていることに篤胤は衝撃を受けた。しかし、後述のように宣長と篤胤では学問の内容・方法ともに大きな相違点がみられる。 享和3年(1803年)、太宰春台『弁道書』を批判した処女作『呵妄書』を著し、翌文化元年(1804年)、「真菅乃屋」を号して自立した。書斎「真菅乃屋」は好学の人であれば、身分を問わず誰に対しても門戸がひらかれていた。以後、篤胤は膨大な量の著作を次々に発表していった。その著作は生涯で100におよぶ。篤胤の執筆する様子は、何日間も不眠不休で書きつづけ、疲れが限界に来たら机にむかったまま寝て、疲れがとれると、起きてまた書きつづけるというものだった。文化2年(1805年)から翌年にかけては『鬼神新論』『本教外編』などの論考を著述している。 文化3年(1806年)より真菅乃屋では私塾として門人を取っている(のちに「気吹舎」に改称)。門人ははじめ3人であったが、最後には553人に達した。ほかに、篤胤没後の門人」と称した人が1,330人にのぼった。文化4年(1807年)以降は医業を兼ね、玄瑞と改めた。 文化8年(1811年)頃までおこなった篤胤の講義は、門人筆記というかたちでまとめられ、『古道大意』『出定笑語』『西籍慨論』『志都の石屋(医道大意)』などの題名でのちに書籍として刊行されることとなるが、この時点では宣長の学説の影響が大きく、篤胤独自の見解はまだ充分にすがたをあらわしていない。 文化8年10月、篤胤が駿河国府中の門人たちを訪れたとき、篤胤は今まで疑問に感じていたことを初めて口にした。すなわち、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』など、神代にまつわる「古伝(いにしえのつたえ)」がそれぞれの書籍のあいだで内容に差異があるのは何故なのか、従来は本居宣長『古事記伝』の説に従えばよいと考えていたが、他の諸書も参照して考慮し、正しい内容を確定すべきではないのか、ということである。門人たちもこれに賛成したところから、篤胤は門人で駿府の本屋、採選亭の主人柴崎直古の寓居に籠もり、諸書を集め、12月5日から年末までの25日間をかけて大部の書を一気に著述した。こうして成ったのが、『古事記』上巻・『日本書紀』神代巻の内容を再構成した『古史成文』であり、その編纂の根拠を記した『古史徴』であった。『霊能真柱』の草稿もこのとき成立している。
※この「国学との出会い」の解説は、「平田篤胤」の解説の一部です。
「国学との出会い」を含む「平田篤胤」の記事については、「平田篤胤」の概要を参照ください。
- 国学との出会いのページへのリンク