国学の天地人の道に対する批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/12 01:39 UTC 版)
「道 (国学)」の記事における「国学の天地人の道に対する批判」の解説
本居宣長は『古事記』を解釈する過程で、儒学における「道」に対して次のような考えに至り、批判を展開している。中国には古来、一系の帝王は存在せず、彼らは互いに皆、国の奪い合いをしている。国を奪った者が帝王、奪われた者が賊である。威力があって知恵が深く、人をなつけ、人の国を奪い取ってしばらくの間、国を良く治めた人を「聖人(君主)」という。その聖人が組み立て、定めたところを「道(人道)」といっている。だから儒学で尊ぶ「道」とは、「人の国を奪うためのもの」、「人に国を奪われないようにする用意」の2つを指す。それに対し、日本の「道」は違う。それは古事記に書かれている。(中略)中国では仁義礼譲孝悌忠などと、様々に作り立てて、人々に厳しく教えようとする。これも世人をなつけるための計(たばかり)である。日本にはそのような、事々しい教えは何もなかった。それにもかかわらず、日本は良く治まってきた。それこそが日本なのだ(『古事記伝』からの要約)。 中国の史実を述べた上で、「道」にそむいたことを口実に国を滅ぼし、新たに国を創り、今度はその国に忠誠を誓わせるためにまた「道」を利用し、周囲を巻き込み、多大な犠牲を生みながら、これを繰り返していると、儒学批判を展開している。一方で、日本の道は万世一系に基づいているとしている。 また、天地の道に対しても、次のような批判を展開している。「仏の道は因果、漢(から)の道には天命といって、天の成す業(わざ)とする。(中略)君を滅ぼし、国を奪いし聖人(現君主)の、己が罪を逃れるための託言にすぎない。天地に心も命もある訳がない。もしまことに天に心があり、理(ことわり)もあり、善人(よきひと)に国を与えて良く治めしめんとするなら、周代の末に必ずまた聖人(別血統の君主)が出るのはどういうことか」として、天地の自ずからなる道(天命に基づく革命論)も否定し、人の作る道でもなく、高御産巣日神の御霊によって、世の中のあらゆる事物が成っているとした(『直毘霊』より)。 道教の『太上妙始経』では、万物の根源を「道(太初・混沌・大極とも)」とし、道が集まったものが気であり、清らかなものが「天」となり、濁ったものが「地」となり、色々な天地の気が合わさり、人や虫や草木が生まれたと記述されている。宣長はこの説を神道の立場から否定し、高御産巣日神が生成するものとしたわけである。
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