国学への傾倒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/16 00:42 UTC 版)
暉皃は安政6年(1859年)に入手した本居宣長の『直毘霊』に大きな感銘を受け、以来国学に傾倒した。 一方、日米修好通商条約の調印(1858年)、安政の大獄(1858~1859年)、桜田門外の変(1860年)という激動する時代の影響を受けて、暉皃は文久3年(1836年)に三河吉田の神主羽田野敬雄の紹介により江戸へ出て平田篤胤門に入門した。江戸滞在中、暉皃は国学書や、国学者、儒学者、勤王家らの書画の収集に努めた。現在暉皃をはじめ、その子義真、孫の道紀を続けて収集した書画は義真役後五十年祭(1958年)の記念事業の一環として展示施設が建設され、昭和41年(1966年)に一般公開された古橋懐古館で展示保存されている。 平田門下生となった暉皃は急速に国学者らしい行動をとり、村の指導者に過ぎなかった暉皃の視野は拡大し、外国事情や国内政治にも深い関心を寄せるようになった。
※この「国学への傾倒」の解説は、「古橋暉皃」の解説の一部です。
「国学への傾倒」を含む「古橋暉皃」の記事については、「古橋暉皃」の概要を参照ください。
- 国学への傾倒のページへのリンク