国学への傾倒と現実社会の直視
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 21:51 UTC 版)
「小林一茶」の記事における「国学への傾倒と現実社会の直視」の解説
一茶が生きた18世紀から19世紀にかけての日本は、ロシアのアダム・ラクスマンやニコライ・レザノフが修交を求めて来日するなど、あまり意識されてこなかった対外関係がクローズアップされるようになった。時事問題に耳ざとい一茶は、ラクスマンやレザノフの来日を題材とした俳句を詠んでいる。また、豊富な勉学の中で一茶は本居宣長の玉勝間、古事記伝などを読み、当時広まってきた国学思想に傾倒していく。折からの対外的な緊張の高まりは、一茶に日本びいきの思いを高め、文化4年(1807年)には、 花おのおの日本魂いさましや という日本賛美の句を作っている。 このような句は一茶の晩年までしばしばみられ、また晩年の文政7年(1824年)には、仏教や儒教が堕落する中で神道のみ澄んでいると、神道を称える文を書いており、一茶の国学への傾倒、そして日本びいきは生涯変わることはなかった。 しかし一茶は単なる盲目的な愛国者ではなかった。当時の日本は百姓一揆や打ちこわしが多発する社会的不安に満ちた時代であり、客観的に見て手放しで素晴らしさを賛美できるような状況ではなかった。一茶はこのような社会情勢、そして日々の生活に追われ苦しむ人々の姿も直視していた。 木枯らしや地びたに暮るる辻諷(つじうた)ひ 文化元年(1804年)に詠まれたこの句には、「世路山川ヨリ嶮シ」、世間で生きていく道は山川よりもけわしいとの前書きがつけられている。夕暮れ、木枯らしが吹きすさぶ中、路地で謡いながら日銭を稼ぐ辻諷いの姿を、一茶は低い目線から描き出している。 文化2年(1805年)、一茶は 霞む日や夕山かげの飴の笛 という俳句を詠む。恵まれない己の境遇や日々の生活に苦しむ人々の姿ばかりではなく、春霞の夕暮れ、山影から飴売りの笛の音が聞こえる情景を詠んだ、まさに童謡の世界を現したかのような句もまた、一茶が描いた世界のひとつである。
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