木下長嘯子とは? わかりやすく解説

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きのした‐ちょうしょうし〔‐チヤウセウシ〕【木下長嘯子】

読み方:きのしたちょうしょうし

[1569〜1649]江戸初期歌人豊臣秀吉の妻、北の政所(まんどころ)の甥(おい)。名は勝俊。小浜城主。関ヶ原の戦いのあと、京都東山隠棲細川幽斎和歌学び近世和歌革新先駆者となった。歌文集挙白集」「若狭少将勝俊朝臣集」など。


木下長嘯子

読み方:キノシタチョウショウシ(kinoshitachoushoushi)

作者 円地文子

初出 昭和34~35年

ジャンル 小説


木下勝俊

(木下長嘯子 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/29 03:47 UTC 版)

木下 勝俊(きのした かつとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大名。後半生は隠士として歌を詠み、歌人としては木下長嘯子(きのした ちょうしょうし)の名で知られる。


  1. ^ a b 寛政重修諸家譜』『尾張群書系図部集』による。『木下家譜』では「家女」と書かれ、身分が低かったことを示唆する。
  2. ^ 二人の間に子はなく、後に離縁した。
  3. ^ a b c 公家阿野実藤の生母。
  4. ^ a b 17歳で没した。高台寺春光院を墓所として創建。
  5. ^ 現在の若狭小浜城は関ヶ原の後に京極高次が築いたもので、それ以前の小浜の城は、後瀬山城をさす。
  6. ^ 佐藤信、五味文彦他『詳説日本史研究』山川出版社、2017年、227頁。 
  7. ^ 塙保己一; 太田藤四郎『群書系図部集 第3』続群書類従完成会、1973年、62-63頁。 
  8. ^ a b 『群書系図部集』では、4つ載せている若狭武田氏の系図の一つ、若州武田系圖別本(狩野永納によるとする)に、勝俊は武田元明の子で、母は松丸殿と記されていたという記述があるが、同書には秀吉が松丸殿を妾にするために元明を殺して奪ったと書いているものの、続けてこの説は大間違い(大謬)であると同書内に注釈も書かれており、他の3つの系図には勝俊の表記はなく、あくまで異本の1つを紹介しているに過ぎない[7]。元明の生年が勝俊の生年と近すぎることから考えて、整合性はないものと考えられる。
  9. ^ 『木下家譜』では、利房、延俊、俊定、秀秋、出雲守、僧は雲照院を生母とし、勝俊と秀規をそれぞれ異母とする。『寛政重修諸家譜』等諸系図では、利房、延俊、秀秋だけを雲照院が産んだ同母兄弟とし、残り全てをそれぞれ異母兄弟とする。
  10. ^ 津田修造 1979, pp.10-13
  11. ^ 別説では本丸ともする。
  12. ^ 結局、伏見城は徳川恩顧ということで引き入れられた甲賀衆の裏切りによって落城した。
  13. ^ 国史研究会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 關原軍記大成』 一、国史研究会〈国史叢書〉、1916年、426-427頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441733/223 国立国会図書館デジタルコレクション 
  14. ^ 徳富猪一郎『国立国会図書館デジタルコレクション 家康時代 上巻 関原役』 第11、民友社〈近世日本国民史〉、1935年、244-245頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/139 国立国会図書館デジタルコレクション 
  15. ^ 永山卯三郎 1937, pp.2455-2456
  16. ^ 戸川 1895, pp.72-73
  17. ^ 河合敦、『関ヶ原敗者達の復活戦』 グラフ社、歌人大名・木下勝俊の項より
  18. ^ 白川亨『石田三成とその一族』第一章 「三成決起の背後には北政所がいた」・『石田三成とその子孫』第一章 「亡夫の願いを適えようとした北政所」、三池純正『敗者から見た関ヶ原合戦』第一章3「三成の追放と反石田陣営の形成」
  19. ^ 浅野史蹟顕彰会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 浅野荘と浅野氏』浅野史蹟顕彰会、1917年、94頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/926969/64 国立国会図書館デジタルコレクション 
  20. ^ 足守の木下家譜には、若狭・小浜領を自ら返上したとも受け取れる表現 「(前略)天下忽チニ徳川ニ帰セシ後自ラ所領ノ地ヲ捨テ(後略)(東京大学史料編纂所・画像) も見受けられる。
  21. ^ 戸川 1895, p.71
  22. ^ この初代歌仙堂は、近隣(現在の円山公園)に住した江戸中期の文人画家・池大雅の死後、その弟子たちが偲んで草庵跡に移築、大雅堂と名付けて1903年まで存在したとされる。
  23. ^ 後に石川丈山比叡山西麓に隠棲し、詩仙堂を構えて、その2階に自ら選んだ36人の中国の詩人の額を掲げたのは、この歌仙堂に倣ったのである。
  24. ^ 失領した長嘯子が、隠棲生活に入ったときに詠んだ歌。
  25. ^ 1627年(寛永4年)、娘の春光院万花紹三を17歳で亡くした時の歌。
  26. ^ 慶長伏見大地震(1596年)で震災の被害を受けた大仏殿について詠んだ和歌。この地震で建物に被害はなかったものの、中の大仏が崩壊している。
  27. ^ 辞世の句。
  28. ^ 大和絵師、住吉如慶が挿絵を描いている。
  29. ^ 勝俊の没後、弟子の山本春正を中心として編纂される。


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