なこそ‐の‐せき【勿来の関】
勿来関
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/18 17:40 UTC 版)
勿来関(なこそのせき)は、古代から歌枕となっている関所の1つ。江戸時代の終わり頃からは「奥州三関」の1つに数えられている[1]。所在地が諸説ある上、その存在自体を疑う説[† 1] もある。
注釈
- ^ 律令体制を補完する格(きゃく)や律(りつ)そのものにも、『六国史』にも、規定も名称も見えないことから、存在を疑う余地もある。
- ^ 「な越そ」が由来とする文書も見られるが、「越ゆ」は下二段活用であるため「な越えそ」となるのが古語の文法上は正しい。そのため、「な越そ」は文法にとらわれない当て字と考えられる。
- ^ 「奥州」が、陸奥国のみならず、出羽国を含む「奥羽」と同義で用いられることがしばしば見られる。
- ^ 松尾芭蕉は、『奥の細道』のなかで、白河関をさして三関の一としているが、他の二関を明らかにしていない。
- ^ 『磐城史料』は、勿来関を「奥州三関」に数えているが、他の二関を明らかにしていない。
- ^ なこその関で詠んだとされる詞書をもつ歌には、源義家の「ふくかぜを なこそのせきと おもへとも みちもせにちる やまざくらかな」がある。その死後80年ほど後に添えられた『月詣和歌集』の詞書と、それを基礎に編集された『千載和歌集』の詞書には「みちのくににまかりけるときなこそのせきにてはなのちりければよめる」とある。源義家が陸奥に赴いたのは生涯において3度ある。1度目は1056年(天喜4年)8月から翌年11月までの期間に前九年合戦に際して、2度目は1070年(延久2年)8月の下野守在任中に陸奥国への援軍として、3度目は1083年(永保3年)9月に自身が陸奥守兼鎮守府将軍として、である。いずれも季節的に桜が散る時期に合致するものはなく、詞書と歌の内容との間に齟齬があって、どこまでを事実として整理できるか見極めが難しい。ただし、この詞書が、なこその関の実在を示す根拠の一つではあることに違いはない。
出典
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