公開とその結果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 04:10 UTC 版)
正規班、B班、特撮班で目一杯カメラを回したため尺が膨大になり、編集作業に手間取り、最後の1週間は2班体制でほとんど徹夜。完成が封切の2日前までずれ込んだために、試写会も開催できなかった。マスメディアもこの奇妙な新作をどう取り上げていいのか分からずに右往左往していたといわれる。 予告編では千葉真一が茶・白の縦縞ジャケットを羽織り、新宿副都心にいる姿だった。これは1974年の映画『直撃! 地獄拳』のワンシーンの流用である。全く無関係のシーンを予告編に使ったため、千葉が新幹線・ひかり109号運転士の青木役とはとても予想できるものではなかった。志穂美悦子と多岐川裕美も全く違う役柄でワンシーンのみ登場。撮影遅延により、予告編は未撮影部分を他の作品から拝借する反則気味のコラージュが多用され、実際に観たら「全然違う」とガッカリする客も多かった。予告編のBGMには、本作の一部と、『解散式』と『仁義の墓場』の一部が使われている。 邦画では珍しいパニック系アクションの製作ということもあり業界からも注目を集め、前評判は高かった。しかし、「タイトルを理由として新聞への広告も拒否された」と佐藤純彌は述べているが、佐藤は宣伝をあまり知らないようで新聞広告は相当数あった。岡田社長は「一生懸命広告した」と述べている。宣伝が十分に行き届くことがなかったというのは、完成が遅れて試写会も無く、映画評論家は試写会を観て、雑誌メディアに批評を掲載するため、これが無かったという意味かもしれない。本作のみの1本立て興行ではなく、「ずうとるび」のドキュメンタリー風中編映画『ずうとるび 前進!前進!大前進!!』との2本立て興行だった。『ずうとるび-』との併映は10代の映画ファンの興行への影響力が大きくなったのを見た岡田が、この年からメインの併映は「青春路線」で行くと発表していたからである。製作費を注ぎ込んで第一級のサスペンス映画に仕上げながら、任侠路線が色濃く残る東映のイメージもあいまって、国内興行は成功を収められなかった。内容もミスばかりする警察とは対照的に、国鉄マンの判断力も責任感のある男として描いていたため、当時全国に40万人いた国鉄職員とその家族が観てくれるのでは、と東映は期待していた。同年に企画段階で頓挫した作品の穴埋めとして急遽製作・上映された『トラック野郎・御意見無用』の配給収入5億3000万円に対し、『新幹線大爆破』3億円と 及ばなかった。都心ではまずまずの入りだったが、新幹線に縁のない北海道や東北地方(当時)の客入りは悪く、大阪などでは途中打ち切りに遭い、当時の週刊誌誌上では「1975年3月の山陽新幹線の博多開業に合わせて公開しようとした便乗企画」などと書かれたが、山陽新幹線の通る西日本地域においても「サッパリだった」という。 一方、『キネマ旬報』の読者選出ではベストワンに選ばれるなど、観た人は面白さを評価し、作品の評価そのものは非常に高かったために、マスメディアで様々な敗因の考察がなされた。東映営業部では「映画の内容がハイブローすぎてヤクザ映画とポルノが好みの東映ファンにソッポを向かれた」「題材がリアル過ぎた」などと分析。客層はいつもと違いホワイトカラーと女性客が圧倒的で、東映本来の客は来ず、頼みのオールナイト興行は閑古鳥が鳴いた。監督の佐藤は、公開8か月後の1976年3月26日に福岡市で開催された『キネマ旬報読者選出ベスト・テン表彰式』で「題名がどぎつ過ぎたこと、東映のミニチュアに信頼が低かったこと、『タワーリング・インフェルノ』にぶつかったこと、一般にクチコミでお客が増えるのは3週目なのに、その3週目に打ち切らざるを得なかったこと、封切り4日前に完成し試写ができなかったこと」を挙げ、後年のインタビューでは「あの当時の新幹線ってやはり華やかなもので日本人は誇りを持っていたから、それを爆破しようとする映画は見たくないという気持ちになったかもしれない」と述べた。脚本の小野竜之助は「ミニチュアを使った特撮を東映が大々的に宣伝し、トリックだとネタばらししたのがまずかった」「アイドル映画とくっつけないで、一本立てにしていたら結果は違った」などと話し、黒井和男も同様に「ミニチュアを派手に使って宣伝したポイントのズレが足を引っ張ったと思う」とのコメントを残している。『映画時報』は「正月あたりに出していれば大成功したと思う。しかし見方によれば東映でもこんな特撮を含めて映画が出来るということを天下に証明したわけで、これは東映のイメージアップに大変効果のあった映画だと思う」などと評している。アメリカのパニック映画の国内進出を受けて立つという製作意図で、『タワーリング・インフェルノ』と同時期に封切りをぶつけ、真っ向勝負を挑んだが、『タワーリング・インフェルノ』の全国県庁所在地では全部2館以上上映、総数180館という前代未聞の拡大方式 による攻勢により、本作も含めて東宝の『動脈列島』、松竹の『おれの行く道』などの日本映画は観客を持っていかれ、『タワーリング・インフェルノ』は、それまでの『エクソシスト』27億円の2倍以上に当たる 当時史上最高の興行収入を記録した(62億円)。 『新幹線大爆破』は興収10億円を目標としていたが、製作費が高かったため、国内興行では1億円、約2億円、2億円の赤字を出し、「大金を投じて開発した新路線の第一弾が大脱線」などと揶揄された。公開初日に新宿東映で立ち合いをしていた坂上順プロデューサーに全国から届くのは不入り情報ばかりで、「私のプロデューサー生命も3年で終わりか」と覚悟した。岡田社長は「駄菓子屋がいい洋菓子を作って、作った本人が『これは美味しい。素晴らしい』と言って店頭に飾ったら、誰も買わなかった。一生懸命広告したけど、お客の方が駄菓子屋で洋菓子を売ってると思ってなかった」「意欲の面、作品的な面でも100点満点で、観客も新しい層を獲得したが、プラス・アルファ―だけの客しか来ず、本来の観客を逃す結果になった」「もう大作はこりごり」「もう東映ファンに嫌われる企画は出さない」「本来の東映ファンを大事にしないと駄目だ」 などと、敷いたばかりの大作路線からの撤退を表明した。本作公開の後、岡田企画だった『実録三億円事件 時効成立』の打ち合わせで、岡田宅を訪れた坂上に岡田は「『新幹線大爆破』は俺の売り方が悪かった」と謝ったという。『映画年鑑』は「東映の『新幹線大爆破』は日本人の新幹線感覚、日本のパニック映画としては物足りないものであった。後にエリザベス女王の来日中のこれに対する関心、さらに海外での受入れ方に注目すべきこととなった。当時パニック映画を東宝と競作は己むを得ないことではあったが歓迎に値するものではなかった。広島抗争のドキュメント・アクションのマンネリ化、換言すれば新しい企画の不足で転換を計った『トラック野郎…』は成功した。その一方アクの強いアクションものは後退の気運を醸しだした。"不良性感度"から"善良性感度"への移行と、一大転換を計ったがこれは失敗し、再び"不良性感度"へ逆行となった」と評した。 1975年度キネマ旬報ベストテン第7位、読者選出第1位。1975年は和製パニック映画『新幹線大爆破』『東京湾炎上』『動脈列島』が封切られ、キネマ旬報は、他2作は惨敗、唯一『新幹線大爆破』が及第点だったと評価している。1978年4月24日に『月曜ロードショー』(TBS系)で最初のテレビ放映があり、1980年代以降、同作品のビデオレンタルやテレビ放送がされるにつれ、劇場公開に間に合わなかった若い世代が本作に熱狂し、日本でも徐々に再評価されるようになった。
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