京都御苑とは? わかりやすく解説

京都御苑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/13 09:45 UTC 版)

日本 > 近畿地方 > 京都府 > 京都市 > 上京区 > 京都御苑
京都御苑
Kyoto Gyoen National Garden
京都御苑の正門・堺町御門
京都御苑 (京都市)
分類 国民公園
所在地
座標 北緯35度01分24秒 東経135度45分48秒 / 北緯35.023289度 東経135.763306度 / 35.023289; 135.763306座標: 北緯35度01分24秒 東経135度45分48秒 / 北緯35.023289度 東経135.763306度 / 35.023289; 135.763306
面積 約65 ha
運営者 環境省
事務所 環境省 京都御苑管理事務所
事務所所在地 京都市上京区京都御苑3
公式サイト 京都御苑
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京都御苑(きょうとぎょえん)は、京都府京都市上京区にある環境省所管の御苑京都御所の周囲の緑地で旧公家町の一帯を指す。

概要

空中写真(2020年撮影)

京都市の中心部に位置し、東西南北を寺町通烏丸通丸太町通今出川通に区切られた区域。東西約700m、南北約1300mの範囲で、総面積は92ヘクタール。その内、環境省が管理する国民公園である京都御苑は65ヘクタールである[1]江戸時代から遺る9ヶ所の外周御門と6ヶ所の切り通しを持つ。

明治東京奠都の際、公家町として御所を囲んでいた公家屋敷の大半が引越し廃れてしまったため、その荒廃ぶりを悲しんだ明治天皇の命により緑化を行い住民憩いの場とした[2]。約140あった宮家と公家の邸宅が撤去されて皇宮付属地として整備され、戦後、国民公園となった[3]

現在は京都御所京都仙洞御所京都大宮御所築地内は宮内庁が、2005年4月に開館した京都迎賓館内閣府が、それ以外は環境省が管理している。

草木が生い茂る国民公園である京都御苑内の様子

多くの木々が生い茂る公園内には、京都御所、京都仙洞御所、京都大宮御所、宮内庁京都事務所皇宮警察本部京都護衛署などの宮内庁・皇宮警察関連の施設をはじめ、公家屋敷の遺構、公園の管理を行う環境省京都御苑管理事務所の他、一般社団法人国民公園協会が管理を行うグラウンドテニスコートに各休憩所資料館レストランカフェ土産店、大型駐車場などもあり、市民の憩いの場になっている。

歴史

京都御苑の歴史は明治時代に始まるが、御苑の中心をなす京都御所の禁裏としての歴史は平安時代土御門内裏東洞院土御門内裏)にまでさかのぼることができる[4]。その後、歴代の天皇がここを御所としたのは、明徳3年(1392年)に南北朝が合一した際、土御門内裏が正式な御所として確認されて以降、明治に至るまでである[4]。この間の500数十年、建物は何度も火災で焼失するなど幾多の盛衰があり、特に室町時代から戦国時代にかけては見る影もなく荒れ果てた[4]

これらの修築、再建を始めたのは上洛してきた織田信長で、この時代に内裏はかなり大規模な建造が行われたようである[4]。続く豊臣秀吉の時代には修造のみならず内裏周辺の整備にも力が入れられた[4]天正年間、秀吉は大規模な都市改造の一環として堂上公家をあまねく禁裏(御所)周辺に移住させた。ただし、近年の研究では公家の集住政策は織田信長から引き継いだもので京都の改造とは直接的な関係はないこと、新家の設立による土地不足や経済的な問題によって全ての堂上公家がこの地域に住めた訳ではなかったことも指摘されている[5]

このように、市内の町々に混在していた多くの公家屋敷が禁裏御所を中心に集められて公家町を形成し[4]江戸時代には御料など所領の策定がなされて、仙洞御所女院御所など、殿舎が充実するに至ったが[4]、現在の京都御苑と比べるとまだ随分と狭いものだった[6]。その後、これら公家町の拡張整備のきっかけとなったのが京都の中心部を焼失させた宝永5年の大火1708年)である[6][7]。この火災によって内裏をはじめとした諸御所や公家屋敷78軒のみならず、大名屋敷24軒のほか、禁裏役人の役屋敷などをことごとく焼失した[6]。大火後の復興にあたり、丸太町通以北、烏丸通以東に食い込んでいた町家区域を立ち退かせて、その跡地を公卿らに分与し、現在の京都御苑の原型となるような区画が整えられた[6]。ただし、四方の大通りに面して9つの門を配し、それらを石垣でつないで周囲に巡らせた、現在見られるような整然とした矩形に整備されるのは明治に入ってからになる[6]

明治になると明治天皇に従って多くの公家が東京へ移り、華族制度の発足と共に全ての華族の東京移住が義務付けられたことで、公家屋敷はもぬけの殻となり、京都御所周辺は急速に荒廃していった。この状況を憂慮した岩倉具視は、旧慣保存のためにもなることを理由に明治10年(1877年)、御所の保存を建議した。これを受けて京都府は御所を囲む火除け地を確保することを目的に、軒を連ねる旧公家屋敷の空家の撤去と跡地の整備を開始した。これが、京都御苑の始まりである。

当初は周囲の土塁と堀を整備するにとどまったが、その後も整備は徐々に進められ、明治16年(1883年)に御苑の管理が京都府から宮内省に移管され後も続けられた。大正天皇大礼が京都御所で行われることになると整備は急進展を見せ、建礼門前大通に大規模な改修工事が施されてほぼ現在の姿になった。

戦後、宮内省が解体されると、昭和24年(1949年)には厚生省の管理運営のもと御苑は国民公園となった。

昭和34年(1959年)、新たに「京都御苑」の町名が設置された[8]。市街地において屈指の広さをもつこの新しい住所(区画)によって一線を画された町は上京区で23町[注釈 1]、中京区で14町[注釈 2]にのぼる[8]

昭和46年(1971年)に各省庁で環境や公害に関係する部署を統合して環境庁が創設されることになると、厚生省の大臣官房国立公園部も環境庁に移ることになり、これに伴い御苑も同庁の所轄となった。これが環境省に引き継がれて今日に至っている。

隣接する二つの神社

京都御苑に隣接して西に護王神社、東に梨木神社が鎮座している[9]。護王神社には平安京最初の天皇である桓武天皇の忠臣和気清麻呂、梨木神社には幕末期の京都で過ごした最後の帝である孝明天皇の重臣三条実万がそれぞれ祭神として祀られており、いずれも京都御苑の保存が決まったのちの明治18、9年に至って、現社地に遷座あるいは建立されたものである[9]。御所の保存に尽力した岩倉具視は、自身の最晩年には、御苑内の旧仙洞御所跡に桓武天皇を祀る平安神宮を建立する考えを持っていたとされ、岩倉の没後も宮内省の官辺はこの構想の下、平安神宮に近侍する形で二つの神社を建立する発想があったものと思われる[9]。結果的に平安神宮はより広い敷地が確保できた岡崎の地に建立され(明治28年)、梨木・護王の両神社が御苑の東西に残った。大正4年(1915年)、両神社は京都御所において執り行われた「大正天皇即位の礼」の祝賀の一環としてそれぞれ祭神を一柱加えた(梨木:三条実美、護王:和気広虫[9]。一方、桓武天皇と孝明天皇を祭神に祀る平安神宮は、毎年の例祭において二基の神輿(鳳輦)を岡崎から京都御所の建礼門まで神幸させて、祭典を執り行っている(参照時代祭)。

建造物・遺構

苑内には各御所をはじめ、宮家・公家邸宅の遺構・鎮守社のほか、9つの外周御門などが残されている。また、平成に入ってからあらたに迎賓館が新築された。

御所

迎賓館

宮家屋敷跡

  • 桂宮 - 築地塀、御門、園池の遺構が桂宮邸跡に現存する[14]。近年跡地の一部が一般公開され、新設された散策路から庭園跡のほか、間取りを復元表示した御殿跡が鑑賞できる[15][16]。御殿の主要部は1893年(明治26年)から翌年にかけて二条離宮の本丸に移築され、1944年(昭和19年)より重要文化財に指定されている[17]
  • 閑院宮 - 収納展示館と庭園が一般公開されており、展示室では京都御苑の歴史や自然、往時の公家文化について学ぶことができる。また、京都御苑の総合案内所も併設されている[18][19]
閑院宮邸跡収納展示館
木造平屋建の「収納展示館」は、1883年(明治16年)に宮内省京都支庁の庁舎として建てられた建物で、平成期に解体修理を行い、再生されたものである[20]。戦後、京都御苑が国民公園となって以降、この建物は「御苑会館」または「児童会館」と呼ばれて、厚生省や京都御苑保存会など複数の組織によって多目的に利用されていたが、1965年(昭和40年)に京都御苑管理事務所が会館から新庁舎に移転し、1973年(昭和48年)には館内の保育施設も廃止された[21]
その後約20年を経た1994年平成6年)、京都迎賓館の建設計画に伴い、閑院宮邸跡に代替運動施設が整備されることとなり、会館の存廃が検討されたが、その後の学術調査により歴史的価値が認められ、旧邸の面影を残す遺構として庭園とともに一体的に保存・活用されることとなった[20]
2003年(平成15年)から周辺整備を含めた全面的な修復工事が3年間にわたって実施され、2006年(平成18年)3月に「収納展示館」として再生された[20]。修復は建設当初の意匠に配慮しつつ、後補の不要部分や内部の改装箇所を撤去・整備し、可能な限りの構造補強を施す方針で進められた。
建物は、中央の中庭を四つの棟で囲む平面構成となっている。東棟は正面入母屋造千鳥破風の車寄せ玄関がある。南棟は資料展示室・収蔵室になり、南側全体にを付けた大きな瓦屋葺きの反り屋根を持つ。西棟はレクチャーホールで北棟が事務棟となっている[22]
宮内省京都支庁が建てられるまでの明治期における閑院宮旧邸の歴史は以下のとおりである。1877年(明治10年)8月に閑院宮載仁親王が東京に移住した後、旧邸は華族会館京都分館として使用され(1879年2月まで)、その後、1879年(明治12年)12月から翌年7月まで京都裁判所の仮庁舎となった[23]1880年(明治13年)後半には、旧邸の車寄と表門が旧徳大寺邸(当時の華族会館)に移築され[24][25][注釈 3]、同年10月には残棟が宮内省より京都盲唖院(現京都府立盲学校京都府立聾学校)に無償で下げ渡された[27][28]。京都盲唖院では、これらを移築・改修して寄宿舎や工学場などに充て、明治14年8月に落成している[27][29]。下げ渡された残棟のうち、実際に利用されたと考えられるのは旧邸の一部(133坪)と台所(36.56坪)、さらに華族部長分局の建築(47.75坪)とされている[29]
『調査報告書』(1996年)によれば、修復前の建物の一部に古材が転用されていることや、起工からわずか3か月足らずで竣工していることなどから、宮内省京都支庁の建築に際して旧邸の遺構が活用された可能性が高いとされている[23]。ただし、中庭を囲む四棟のうち、西棟のみは大正から昭和初期にかけて建てられたものと考えられる[30]。また、意匠が異なる南棟西端の一室については、御所の賢所に使用されていた春興殿の一部が移築されたとする説もある[30]
  • 有栖川宮 - 邸跡を示す標柱がある。明治6年9月より旧邸が京都裁判所として使用された[31]
  • 賀陽宮 - 邸跡には幕末に活躍した朝彦親王(=中川宮)の遺徳を偲ぶ「貽範碑」(いはんひ)[32]がある。没後40年目にあたる昭和6年、子孫らによって建立された。

公家屋敷跡

近衛邸跡の「近衛桜」
  • 一条家 - 邸跡に井戸の「県井」(あがたい、縣井)がある。この井戸は、もとは御苑外の一条邸にあったものを、保存のため御苑内の旧一条邸跡へ移設したとの記録[34]があり、その後、水が涸れたため、1996年にその近くで掘削し直したものという[35]明治天皇皇后となった一条美子(はるこ:昭憲皇太后)の産湯に用いられたと伝えられるが、昭憲皇太后の生誕地は御苑外の一条邸[34]とされる。
九条池と拾翠亭主屋 (2014年2月22日撮影)
  • 九条家 - 庭園と茶室が残されている。茶室「拾翠亭」の前面に九条池が広がる。本来は勾玉池と呼び、はじめ防火用のため池だったものが安永年間初期に移転してきた九条邸に取り込まれたとみられる[36]。池に架かる高倉橋は御苑の保存改修期にあたる明治16年1月の竣工[37]高倉通が御苑南門の正路(行幸道路)に予定されていた頃に架橋されたもので、その後正路は堺町通と定められた[37]
旧邸の主屋などは明治2年の東京奠都に伴って転居先の東京本邸に移築されたが、昭和9年に国に寄贈され、東京国立博物館の苑内で「九条館」として保存されている[38][39]
  • 中山家 - 皇子・祐宮(さちのみや、のちの明治天皇)が生まれた産屋とその名にちなんだ井戸「祐井」(さちのい)が中山邸跡に残されている。傍らに井戸の由来を伝える祐井碑が建つ[40]
  • 鷹司家 - 邸跡を示す案内板がある。明治13年1月、旧邸地に観象台(京都府立測候所)が設置された[41]

外周御門

堺町通の正面に建つ堺町御門

明治11年4月、京都府は宮内省の承認を得て四方の境界を定め[42]、外周に土塁を築造するとともに江戸時代から遺る9つの御門を外周に面する形で移設・配置した。御門の様式はいずれも本瓦葺四脚門(高麗門[43]

  • 堺町御門(正門) - 天皇が行幸・還幸の際に使用する正門。両側に門番所が付属する。幕末に長州藩士がここの門番を外されて出入禁止となった(堺町御門の変)。現在は丸太町通に面して京都御苑の南側にあり、この御門の正面より南へ下ると堺町通になる。この御門はかつては現在よりも北よりにあった[44]。1880年(明治13年)にこの御門の左右の枡形を組み直して、東西へ土塁を延長した[45]
  • 下立売御門 - 現在は烏丸通下立売下る京都御苑の西側にある。この御門はかつては現在よりも東よりの[44]、下立売通烏丸東入にあった。1879年(明治12年)にこの御門の近隣の土塁と枡形が出来て、土塁前へ引建、洗木、修繕した[45]
  • 新在家御門 - 通称蛤御門1864年元治元年)の蛤御門の変(禁門の変)で知られる。通称の命名時期については近年定説を覆す新説(元禄7年頃)が発表された[46]。また、本来の開かずの門(禁門)は下立売御門であった可能性が指摘されている[47]。現在は烏丸通下長者町上る京都御苑の西側にある。この御門はかつては現在よりも東よりにあって、御門外は南へ向いていた[44]。1878年(明治11年)にこの御門を土塁前へ引建、洗木、修繕して、1879年(明治12年)に左右の土塁を枡形に積替た[45]
  • 中立売御門 - 現在は烏丸通に面して京都御苑の西側にあり、この御門の正面より西へ入ると中立売通になる。1878年(明治11年)にこの御門を土塁前へ引建、洗木、修繕して、1879年(明治12年)に左右の土塁を枡形に積替た[45]
  • 乾御門 - 現在は烏丸通一条上る京都御苑の西側にある。この御門はかつては現在よりも東よりにあって、御門内は京都御所の北西の辻であった[44]。1878年(明治11年)にこの御門を土塁前へ引建、洗木、修繕して、1879年(明治12年)に左右の土塁を枡形に積替た[45]
  • 今出川御門 - 現在は今出川通烏丸東入京都御苑の北側にあり、この御門の正面より北へ上ると相国寺総門へ至る。1878年(明治11年)にこの御門を在来のまま洗木並びに修繕した[45]
  • 石薬師御門 - かつてはこの御門より東西へ石薬師通が通っており、この御門の周辺は旧町名が石薬師町であった[注釈 4][注釈 5]。往時はその地に石薬師堂があったことからその名称が起こる[51]。石薬師御門外より石薬師通を東へ入ると寺町通へ面するかつての真如堂跡へ至った[注釈 7]。明治2年、東京奠都に反対する住民千人がこの門に集まり気勢を上げた[59]。現在は梨木通に面して京都御苑の東側にあり、この御門の正面より東へ入ると石薬師通になる。この御門はかつては現在よりも西よりにあって、この御門外より南へ下ると二階町(二階丁)で、北へ上ると常盤井町(トキハ井丁)であった[44]。1880年(明治13年)にこの御門を在来の場所よりおよそ60ばかり土塁側へ引建、修繕して、左右の枡形を組み直して近隣の土塁も出来た[45]
  • 清和院御門 - 譲位した清和天皇の在所「清和院」がこの付近にあった[59]。現在は寺町通に面して京都御苑の東側にあり、この御門外の寺町通より東へ入ると広小路通になる。この御門はかつては現在よりも西よりにあって、この御門外より北へ上ると二階町(二階丁)であった[44]。1879年(明治12年)にこの御門の近隣の土塁と枡形が出来て、土塁前へ引建、洗木、修繕した[45]
  • 寺町御門 - 宝永の大火後に新設された御門で、江戸期の名称は「武家町口御門」[59]。現在は、寺町通上切通し下る京都御苑の東側にある。1880年(明治13年)にこの御門を土塁際へ引建直して、左右の枡形を組直して近隣の土塁も出来た[45]

神社

白雲神社 (2014年2月22日撮影)

その他の遺構

  • 学習院跡 - 公家の教育機関として幕末の京都に設けられた「京都学習院」の跡地。京都御所の東側にある建春門近くに案内板がある。
  • 二条御所二条古城)石垣 - 足利将軍の「花の御所」と呼ばれた往時から城の僅か石垣が遺り復元され当御苑内「京都御苑」及び「元離宮二条城」に両設し遺構を伝えている。

自然

京都御苑内には500種以上の植物がある。苑内には約5万本の樹木が生育しており、多くは明治以降に植栽されたものである。マツケヤキシイカシ類、イチョウなどのほか、ウメモモサクラサルスベリなどの花の咲く木も多く、これら多彩な樹々が御苑の風格と四季の彩りをなしている。また、スミレタンポポどの草花やキノコ類も多く見られる。キノコ類は400種以上が確認されており、一年を通じて観察できる。

苑内には動物も多く見られる。野鳥の観測地として知られ、100種以上の野鳥が確認され、そのうち約20種は苑内で繁殖されている。代表的な鳥としてはアオバトビンズイトラツグミゴイサギなどがあげられる。昆虫類も多く見られ、チョウ類55種、トンボ類26種、セミ類8種などが確認できる。

苑内には、自然に親しむ場所として「母と子の森」「トンボ池」「出水の小川」などが整備されているほか、「母と子の森」内の「森の文庫」では植物や生物など自然についての本が置かれたり、閑院宮邸跡の収納展示室で自然や歴史について解説とともに学ぶこともできる。

仙洞御所の池には魚類が生息している。ハゼ類の研究者として知られる上皇明仁は、ここで採取したヨシノボリの遺伝子解析により、ビワヨシノボリとシマヒレヨシノボリの交雑種であることを明らかにした論文を2019年発表した[61]

こうした環境が京都市内の中心部にあることで、散策や花見のほか、バードウォッチングや自然観察会などに多くの人が訪れる場となっている[62]

催事

その他

御所の細道

京都の住民は、京都御苑の区域を指して単に「御所」と呼ぶことが多い。

公園内ではのんびりと散歩を楽しむ人やバードウォッチングをする人もいる。御苑の北隣には同志社大学同志社女子大学(両校とも今出川キャンパス)があるため、ベンチで寝転ぶ学生の姿をよく見かける。また、住民の通り抜けルートにもなっているが、通路部分は舗装されておらず、砂利が敷き詰められているため自転車では走りづらい。しかし、自転車の走行跡が砂利道にできて走りやすくなっている部分もある。この走行跡は御所の細道と呼ばれることがある。ただし、走行跡は自転車一台分の幅しかないため、対向車が来た場合は譲り合う光景が見られる[63]

公園内は京都府警皇宮警察が常に見回りをしていて、京都御所や仙洞御所の塀に近づくとセンサーが反応し、すぐに注意される。

公園内への放置自転車が、2010年代に入って目立つようになっている。主に、近隣の京都市営地下鉄丸太町駅の利用者が停めているものと見られている。地元住民からは、公園の美観を損なうなどとして撤去を求める声が強いが、公園内は京都市の撤去条例の対象外となっており、公園管理者である環境省などは対応に苦慮していた[64]が、中立売休憩所付近に駐輪場が設けられた。

アクセス

画像集

脚注

注釈

  1. ^ 京都御苑に隣接する上京区の町は、春日町、堀松町、五丁目町、桜鶴円町、鷹司町、龍前町、広橋殿町、観三橘町、梅屋町、今出川町、玄武町、新北小路町、常盤井殿町、革堂之内町、大原口町、大原口突抜町、真如堂突抜町、真如堂前町、染殿町、東桜町、荒神町、松陰町、信富町になる。
  2. ^ 京都御苑に隣接する中京区の町は、下御霊前町、石屋町、毘沙門町、昆布屋町、舟屋町、桝屋町、桑原町、四丁目、鍵屋町、坂本町、関東屋町、三本木町、光り堂町、大倉町になる。
  3. ^ 旧表門は同志社大学大学院門として烏丸今出川東入ル北側に現存している[25][26]
  4. ^ 旧町名の石薬師町は寺町通今出川下る二筋目西入石薬師御門までの町で、明治12年に石薬師西町と石薬師東町に別れ、明治19年に京都御苑内の地名を廃止したときに京都御苑内になる石薬師西町の全部と石薬師東町の一部が廃止され、残りの石薬師東町は同年に真如堂前町・染殿町へ編入した。現在の京都市上京区石薬師町(郵便番号602-8226)とは異なる。
  5. ^ a b c 1653年(承応2年)の『新改洛陽并洛外之圖』には京極今出川に「真如堂」がありその西に「門まえ」(門前)とあり、真如堂の南に「ごくらくじ」(極楽寺)が並び、その西へ入る「石やくし丁」(石薬師町)が見えるが、御門は描かれていない[48]。1666年(寛文6年)の『新板平安城案内之圖』には京極今出川に「しんによだう」(真如堂)、「こくらくじ」(極楽寺)が並び、その向かいに「真如だうまえ丁」(真如堂前町)とその南の「なしの木丁」(梨木町)との間に「石やくし通」(石薬師通)が見える。いくつかの御門が描かれているが、ただし石薬師御門は描かれていない[49]。1686年(貞享3年)刊の[京大絵図]には京極今出川に「真如堂」、「東北寺」(東北院)、「こくらく寺」(極楽寺)が並び、その西に向かって「真如堂門まえ」(真如堂門前)、西へ入り「いしやくし丁」(石薬師町)が見える。いくつかの御門が描かれているが、ただし石薬師御門は描かれていない[50]
  6. ^ かつて京極今出川にあった真如堂は寺町通の東、今出川通の南およそ方2の地がその跡になり[52][注釈 5]、現在の京都市上京区河原町通今出川下る西側の大宮町[53]、今出川通寺町東入米屋町[54]、寺町通今出川下る扇町、中筋通石薬師上る大猪熊町、河原町通今出川下る2丁目の栄町を含む範囲の中に境内があったが[53]、元禄5年の火災の後に移転してその跡地は10年ほど荒地となった後に町屋となった[53][55]。京極今出川の真如堂跡地より寺町通へ向かって西側に京都市上京区寺町通今出川下る西側の真如堂前町、寺町通今出川下る一筋目西入真如堂突抜町の町名が残る[56][注釈 5]
  7. ^ 真如堂は天正15年より元禄6年まで京極今出川[注釈 6]にあったが[57]、石薬師(石仏の薬師如来像)は元禄年間に真如堂と共に現寺地に移転し、真如堂境内の薬師堂で奉安されている[58]

出典

  1. ^ 『国民公園 京都御苑』(環境省京都御苑管理事務所が作成しているパンフレットより、平成24年10月改定)
  2. ^ 意外に知らない御苑のこと 御所との違いを知っていますか 上京区役所、上京ふれあいネット「カミング」
  3. ^ 京都御苑概要 環境省
  4. ^ a b c d e f g 川嶋将生鎌田道隆『京都 町名ものがたり』京都新聞社、1979年、196-198頁。
  5. ^ 登谷伸宏『近世の公家社会と京都 集住のかたちと都市社会』(思文閣出版、2015年) ISBN 978-4-7842-1795-3
  6. ^ a b c d e 川嶋将生・鎌田道隆『京都 町名ものがたり』京都新聞社、1979年、169-174頁。
  7. ^ 冷泉為人「江戸時代の京都・公家町における災害と復興」『京都の歴史災害』吉越昭久・片平博文編、思文閣、2012年、96頁。
  8. ^ a b 川嶋将生・鎌田道隆『京都 町名ものがたり』京都新聞社、1979年、194-195頁。
  9. ^ a b c d 岡田精司『京の社』塙書房、2000年、278-283頁。
  10. ^ 上京区の史蹟百選/幸神社”. 京都市 (2008年10月21日). 2025年6月28日閲覧。
  11. ^ 下間正隆『イラスト京都御所』京都新聞出版センター、2019年、198、199頁。
  12. ^ 『京都大事典』淡交社、1984年、437頁。
  13. ^ 冷泉為人「江戸時代の京都・公家町における災害と復興」『京都の歴史災害』吉越昭久・片平博文編、思文閣、2012年、98頁。
  14. ^ 歴史にふれる 桂宮邸跡”. 一般財団法人国民公園協会 京都御苑. 2022年6月14日閲覧。
  15. ^ 『御苑ニュース2022夏号』国民公園協会京都御苑、2022年、2頁。
  16. ^ 公家邸跡の庭園”. 環境省. 2022年5月24日閲覧。
  17. ^ 二条城の歴史・見どころ ~ 本丸御殿・庭園 - 元離宮二条城
  18. ^ 御苑案内図(閑院宮邸跡) - 環境省京都御苑管理事務所
  19. ^ 閑院宮邸跡収納展示館 - 一般財団法人国民公園協会 京都御苑
  20. ^ a b c 吉井雅彦; 堂岡實; 吉村龍二 (2006年4月15日). “閑院宮邸跡開館特集号” (PDF). 京都御苑ニュース(平成18年4月15日 臨時増刊号). 一般財団法人国民公園協会 京都御苑. 2025年9月6日閲覧。
  21. ^ 會館平面圖”. 京都御苑アーカイブ. 環境省京都御苑管理事務所. 2025年9月6日閲覧。
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参考文献

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