ラテンアメリカ、中東、東南アジアへの干渉
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「アメリカ合衆国の歴史 (1980-1991)」の記事における「ラテンアメリカ、中東、東南アジアへの干渉」の解説
レーガンが国の軍事力を快復させると約束したことで、1980年代の軍事費増大により、新たな軍拡競争で米ソ間の関係は1960年代以降はなかったような緊張関係に発展していた。 レーガンの外交政策は概して成功していると考えられ、当時の国内政策に勝っていると見られていた。レーガンは冷戦に対してタカ派的アプローチを好み、特に第三世界における超大国競合においてそうだった。しかし、ベトナムにおける挫折の後で、アメリカ人はあまりに大きな軍事介入を続けることの経済と財政のコストを賄うことに次第に懐疑的になっていた。レーガン政権はこのことに対して、金も人も犠牲が大きかった朝鮮やベトナムのような大規模の作戦とは異なり、特別に訓練された内乱対策、すなわち「低強度紛争」という比較的安価な戦略を用いることで打ち勝とうとした。 中東戦争は軍事行動のもう一つの火種だった。1982年、イスラエルはパレスチナ解放機構(PLO)の殲滅を狙ってレバノンに侵攻した。しかし、イスラエル国内に政治的危機を生み、国際的非難を浴びたサブラ・シャティーラの虐殺事件の後、アメリカ軍がベイルートに進駐し、イスラエル軍を撤退させた。それ以前のレーガン政権は1982年半ばのイスラエルによるレバノン侵攻を支持する姿勢にあったが、レバノンにおけるイスラエルの敵であり、親ソビエトのシリアの影響力を抑えてもいた。しかし、敵味方が入り乱れたレバノン内戦から多国籍軍が撤退することで、レバノン国内は泥沼化した。1983年10月23日、海兵隊宿舎爆破事件で241人のアメリカ兵が殺害された。それから間もなくアメリカは残っていた1,600名の部隊を撤退させた。 ベイルートの海兵隊宿舎爆破から2日後、アメリカは『アージェント・フュリー(Urgent Fury<押さえきれぬ怒り>)作戦』によってグレナダに侵攻した。10月19日、南アメリカに近い小さな島国であるグレナダでは、確固としたマルクス・レーニン主義者の副首相バーナード・コアードがキューバ、ソビエト連邦など共産主義諸国との結びつき強化を求めてクーデターを起こした。レーガン政権は在グレナダのアメリカ人や西洋の医学生500人の安全確保を大義名分としてグレナダに侵攻した。『アージェント・フュリー作戦』の成功は、ベイルートでの自爆テロ事件で落ちていたアメリカ人の士気をあげ、メディアの注意をレバノンではなくグレナダの方に向けさせた。グレナダはその後の「低強度紛争」のモデルになった。その後アメリカは同じようなやり方でリビアを攻撃した。これは多くの軍人が訪れていたドイツのディスコで爆破事件があり、2人のアメリカ軍人を含む3人を殺害したことに、リビアの指導者ムアンマル・アル=カッザーフィーが関与していたことが分かったためだった。 レーガン政権はエルサルバドル、ホンジュラスさらには程度では落ちるがグアテマラにおける軍事政権に資金や武器の供与もしていた。グアテマラは1982年から1983年に掛けて、右派軍人独裁者エフレイン・リオス・モントが支配していた。アルゼンチンの軍事政権が人権侵害していたことを前大統領のジミー・カーターが公式に非難していたことを撤回し、CIAとアルゼンチンの情報部と協業させてコントラに資金提供させた。中央アメリカ、特にエルサルバドルとニカラグアはレーガン政権の主要な関心事だった。ニカラグアではサンディニスタ民族解放戦線がアメリカに支援されていたソモサ王朝の支配を打倒していた。エルサルバドルとニカラグアは歴史的に多国籍企業や裕福な土地所有者オリガルヒ(ロシア語の新興財閥)によって支配されており、国民の大半は貧窮に喘いでいた。両国においてはマルクス主義者が支配的な革命指導者が小作農民からの支持を得るようになっていた。 1982年、CIAはアルゼンチンの国家情報機関の援助を得て、ニカラグアでコントラと呼ばれる右派民兵組織を結成させ財政援助した。この計画の秘密資金の出所を洗うことで、イラン・コントラ事件の暴露に繋がった。1985年、レーガンはレバノンにおけるアメリカ人捕虜を解放しようとして失敗した中で、イランに対する武器販売を承認した。レーガンは後に、その部下達が利益をコントラに違法に横流ししていたことを無視していたと告白した。国家安全保障担当補佐官ジョン・M・ポインデクスターの副官で海兵中佐のオリバー・ノースがその非難の大半を浴びることになった。このスキャンダルの結果、1986年にレーガンの支持率は急落し、その判断力を深刻に疑うアメリカ人が増え始めた。レーガンは政権最後の2年間でその人気を快復したものの、1985年に得ていたような支持率にまで戻すことはできなかった。1986年の中間選挙では民主党が予想通り議会の多数派を取り戻した。一方オリバー・ノースは1987年の議会聴聞の間、短期間の有名人になった。 ブラックアフリカ(サハラ砂漠より南のアフリカ)においては、アパルトヘイトを実施していた南アフリカの支援により、内戦下にあったモザンビークとアンゴラで、実質的にキューバとソビエト連邦に支援されたマルクス・レーニン主義者のモザンビーク解放戦線とアンゴラ解放人民運動を転覆させる試みもおこなった。レーガン政権はモザンビークではモザンビーク民族抵抗運動にアンゴラではアンゴラ全面独立民族同盟に肩入れし、秘密の軍事と人的支援を行った。 アフガニスタンでは、ソビエトによる代理政権に対抗するムジャーヒディーンに積極的な軍事と人的支援を行い、携行地対空ミサイルのスティンガーミサイルを供与した。アメリカの同盟国であるサウジアラビアやパキスタンも反乱軍に少なからぬ支援を行った。ソビエト連邦共産党書記長のミハイル・ゴルバチョフはアフガニスタンにおける自国の関与を次第に減じ、最終的には泥沼化していた対ゲリラ戦争から撤退した。 レーガンはまた、カンボジアでベトナムが樹立したヘン・サムリン共産主義政権(後にはフン・セン)への反対を表明した。ヘン・サムリンは大量虐殺を行ったクメール・ルージュ政権をベトナム軍と共に放逐していた。レーガン政権は共和派クメール民族解放戦線と王党派のフンシンペックによる反乱に対して軍事と人的支援を承認した。また国際連合では民主カンボジア連合政権(クメール民族解放戦線とフンシンペックおよびクメール・ルージュの三派連合)の代表権継続を支持し、ベトナムが後ろ盾になったカンプチア人民共和国を承認しなかった。 さらにフィリピンでは、熱烈な反共主義者で独裁者のフェルディナンド・マルコス大統領支援を続けた。婦人有権者同盟が主催した1984年大統領候補討論会では、レーガンが「私はフィリピンでは民主主義の権利という立場から見て良くないと思われるものがあることは知っているが、それに代わるものがあるだろうか?大きな共産主義の動きがある。」と言ってマルコス支持を説明した。これは当時のフィリピンで共産主義者ゲリラの活動が行われていたことに言及したものだった。アメリカはフィリピンに軍事的な戦略価値を認めており、マルコス政権はアメリカ海軍基地を国内において置く合意を覆さないことが分かっていた。マルコスは1986年にコラソン・アキノが指導した大半が平和的なエドゥサ革命によって失脚した。 レーガンの国際連合に対する政策は非協力であり、1985年から1987年に掛けてアメリカ合衆国がユネスコから撤退し、国連への拠出金を慎重に差し控えるようになった時がその頂点だった。アメリカの政策立案者達はこの戦術が国連への影響力を強める有効な方法だったと考えている。アメリカは国連との関係を修復するために拠出金保留政策を撤廃したが、このために国連に対して大きな負債が蓄積されることになった。
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