ラテンアメリカ、中東、東南アジアへの干渉とは? わかりやすく解説

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ラテンアメリカ、中東、東南アジアへの干渉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 06:49 UTC 版)

アメリカ合衆国の歴史 (1980-1991)」の記事における「ラテンアメリカ、中東、東南アジアへの干渉」の解説

レーガンが国の軍事力快復させると約束したことで、1980年代軍事費増大により、新たな軍拡競争米ソ間の関係は1960年代以降はなかったような緊張関係に発展していた。 レーガン外交政策概して成功していると考えられ当時国内政策勝っていると見られていた。レーガン冷戦に対してタカ派アプローチ好み、特に第三世界における超大国競合においてそうだった。しかし、ベトナムにおける挫折後でアメリカ人あまりに大きな軍事介入続けることの経済財政コスト賄うことに次第懐疑的になっていた。レーガン政権はこのことに対して、金も人も犠牲大きかった朝鮮ベトナムのような大規模作戦とは異なり特別に訓練され内乱対策、すなわち「低強度紛争」という比較安価な戦略用いることで打ち勝とうとした。 中東戦争軍事行動もう一つ火種だった。1982年イスラエルパレスチナ解放機構PLO)の殲滅狙ってレバノン侵攻した。しかし、イスラエル国内政治的危機を生み、国際的非難浴びたサブラ・シャティーラの虐殺事件の後アメリカ軍ベイルート進駐し、イスラエル軍撤退させた。それ以前レーガン政権1982年半ばイスラエルによるレバノン侵攻支持する姿勢にあったが、レバノンにおけるイスラエルの敵であり、親ソビエトシリア影響力抑えてもいた。しかし、敵味方入り乱れたレバノン内戦から多国籍軍撤退することで、レバノン国内泥沼化した。1983年10月23日海兵隊宿舎爆破事件241人のアメリカ兵殺害された。それから間もなくアメリカ残っていた1,600名の部隊撤退させた。 ベイルート海兵隊宿舎爆破から2日後アメリカは『アージェント・フュリー(Urgent Fury押さえきれぬ怒り>)作戦』によってグレナダ侵攻した10月19日南アメリカに近い小さな島国であるグレナダでは、確固としたマルクス・レーニン主義者の副首相バーナード・コアードがキューバソビエト連邦など共産主義諸国との結びつき強化求めてクーデター起こしたレーガン政権は在グレナダアメリカ人西洋医学生500人の安全確保大義名分としてグレナダ侵攻した。『アージェント・フュリー作戦』の成功は、ベイルートでの自爆テロ事件落ちていたアメリカ人士気をあげ、メディア注意レバノンではなくグレナダ方に向けさせた。グレナダその後の「低強度紛争」のモデルになったその後アメリカ同じようやり方リビア攻撃した。これは多く軍人訪れていたドイツディスコ爆破事件があり、2人アメリカ軍人を含む3人を殺害したことに、リビア指導者ムアンマル・アル=カッザーフィー関与していたことが分かっためだったレーガン政権エルサルバドルホンジュラスさらには程度では落ちるがグアテマラにおける軍事政権資金武器供与もしていた。グアテマラ1982年から1983年掛けて右派軍人独裁者エフレイン・リオス・モントが支配していた。アルゼンチンの軍事政権人権侵害していたことを前大統領ジミー・カーターが公式に非難していたことを撤回しCIAアルゼンチン情報部と協業させてコントラ資金提供させた。中央アメリカ、特にエルサルバドルニカラグアレーガン政権主要な関心事だった。ニカラグアではサンディニスタ民族解放戦線アメリカ支援されていたソモサ王朝支配打倒していた。エルサルバドルニカラグア歴史的に多国籍企業裕福な土地所有者オリガルヒロシア語新興財閥)によって支配されており、国民大半貧窮に喘いでいた。両国においてはマルクス主義者支配的な革命指導者小作農民からの支持を得るようになっていた。 1982年CIAアルゼンチン国家情報機関援助得てニカラグアコントラ呼ばれる右派民兵組織結成させ財政援助した。この計画秘密資金出所を洗うことで、イラン・コントラ事件暴露繋がった1985年レーガンレバノンにおけるアメリカ人捕虜解放しようとして失敗した中で、イラン対す武器販売承認したレーガンは後に、その部下達利益コントラ違法に横流ししていたことを無視していたと告白した国家安全保障担当補佐官ジョン・M・ポインデクスターの副官海兵中佐オリバー・ノースがその非難大半浴びることになった。このスキャンダル結果1986年レーガン支持率急落し、その判断力深刻に疑うアメリカ人増え始めたレーガン政権最後2年間でその人気を快復したものの、1985年得てたような支持率にまで戻すことはできなかった。1986年中間選挙では民主党予想通り議会多数派取り戻した一方オリバー・ノース1987年議会聴聞の間、短期間有名人になったブラックアフリカサハラ砂漠より南のアフリカにおいてはアパルトヘイト実施していた南アフリカ支援により、内戦下にあったモザンビークアンゴラで、実質的にキューバとソビエト連邦支援されマルクス・レーニン主義者のモザンビーク解放戦線アンゴラ解放人民運動転覆させる試みおこなったレーガン政権モザンビークではモザンビーク民族抵抗運動アンゴラではアンゴラ全面独立民族同盟肩入れし、秘密の軍事人的支援行ったアフガニスタンでは、ソビエトによる代理政権対抗するムジャーヒディーン積極的な軍事人的支援行い携行地対空ミサイルスティンガーミサイル供与した。アメリカ同盟国であるサウジアラビアパキスタン反乱軍少なからぬ支援行ったソビエト連邦共産党書記長ミハイル・ゴルバチョフアフガニスタンにおける自国関与次第減じ最終的に泥沼化していた対ゲリラ戦争から撤退したレーガンまた、カンボジアベトナム樹立したヘン・サムリン共産主義政権(後にはフン・セン)への反対表明したヘン・サムリン大量虐殺行ったクメール・ルージュ政権ベトナムと共に放逐していた。レーガン政権共和派クメール民族解放戦線王党派フンシンペックによる反乱に対して軍事人的支援承認した。また国際連合では民主カンボジア連合政権クメール民族解放戦線フンシンペックおよびクメール・ルージュの三派連合)の代表権継続支持しベトナム後ろ盾になったカンプチア人民共和国承認しなかった。 さらにフィリピンでは熱烈な反共主義者独裁者フェルディナンド・マルコス大統領支援続けた婦人有権者同盟主催した1984年大統領候補討論会では、レーガンが「私はフィリピンでは民主主義権利という立場から見て良くない思われるものがあることは知っているが、それに代わるものがあるだろうか大きな共産主義動きがある。」と言ってマルコス支持説明した。これは当時フィリピン共産主義者ゲリラ活動が行われていたことに言及したのだったアメリカフィリピン軍事的な戦略価値認めており、マルコス政権アメリカ海軍基地国内において置く合意を覆さないことが分かっていた。マルコス1986年コラソン・アキノ指導した大半平和的なエドゥサ革命によって失脚したレーガン国際連合対す政策は非協力であり、1985年から1987年掛けてアメリカ合衆国ユネスコから撤退し国連への拠出金慎重に差し控えるようになった時がその頂点だった。アメリカ政策立案者達はこの戦術国連への影響力強め有効な方法だったと考えている。アメリカ国連との関係を修復するために拠出金保留政策撤廃したが、このため国連に対して大きな負債蓄積されることになった

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