ベトナムの改革と撤退
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「カンボジア・ベトナム戦争」の記事における「ベトナムの改革と撤退」の解説
ベトナム指導部がクメール・ルージュ政権を排除しようとカンボジア侵攻を開始した1978年、ベトナム政権は国際社会の否定的な反応を予期していなかった。しかし侵攻後に起こった事件で、ベトナム指導部は自らの目的に対する国際的な共感につき、大いに見込み違いをしていたことが明らかになった。ベトナムを後援する代わりに、ほとんどの国連加盟国は、カンボジアへのベトナムの武力使用を公然と非難し、かつてカンボジアをこのような蛮行で支配した、崩壊したクメール・ルージュ組織を復活させる動きさえあった。従って当然、軍事的な問題としてのカンボジアは、国際社会でのベトナムに関する経済的問題や外交問題へと急速に発展した。ベトナムが隣国カンボジアを占領した10年を通じて、ベトナム政府とベトナムが組み込んだPRK政権は、国際社会から爪弾きにされた。 カンボジアに対する国際社会の政治的立場は、それまで長らく続いた紛争によって既に荒廃していたベトナム経済に深刻な影響を与えた。今までにもベトナムに対する制裁を行っていたアメリカ合衆国は、ベトナムやカンプチア人民共和国が世界銀行やアジア開発銀行、国際通貨基金のような主要な国際機関に加盟することを拒否し、他の国連加盟国にも国債を受けないよう説得した。1979年に日本はベトナムへの経済援助を全て延期することで圧力を強め、さらにベトナム指導部に対し、経済援助はカンボジアや中ソ対立、ボートピープル問題に対する政策を修正すれば再開されることになると警告した。スウェーデンは西側で最もベトナムに忠実な支援国とみなされていたが、事実上全ての国が援助を取り消すと共産主義国への関与を縮小することに決した。 外交圧力に加えて、1975年からベトナム政府が行った国内政策は、ベトナムの経済成長を刺激する点でほとんど効果がないことを証明していた。ソ連型の計画経済を構築することで、農業と軽工業部門の生産が停滞したとはいえ、ベトナムは重工業の発展を最重要視した。さらに総人口の変移で生産高が減少した為に、再統一後の南ベトナム経済の国有化政策は、混沌を招いたに過ぎなかった。こうした経済政策の失敗に加えて、126万人の兵力を有する世界第5位の軍事力をベトナムは維持していた。従って毎年120億ドルの軍事援助をソ連から得ていたとはいえ、ベトナム政府は軍事費とカンボジアでの作戦に予算の3分の1を費やさなければならず、よって更にベトナムの経済再建の効果を妨げることになった。 国際的な圧力を受けたベトナムは、様々な地域の抵抗集団との弱体化した紛争に忙殺される状態から逃れるために、早くも1982年にはカンボジアからの部隊の撤退を開始した。しかしベトナムが指揮する撤退過程は、国際社会の確認がなく、そのために外国の監視団は、ベトナム軍の動きを単なる部隊の入れ替えとしか扱わなかった。カンボジアから撤退するためにベトナムは1984年にK5計画として知られる5段階の戦略を明らかにし、この戦略はベトナムのカンボジア作戦を指揮したレ・ドゥック・アイン将軍により行われた。第一段階はベトナム軍が西カンボジアやタイとの国境沿いの武装集団の基地を捕捉することが求められた。第二段階にはタイとの国境の抵抗集団を撃破し、住民の安全を図ること、カンプチア人民革命軍を構築しつつ国境を封鎖することが含まれていた。外国の監視団は、1984年-1985年の乾季の攻撃でK5計画の第一段階を完了し、そこで数か所ある反ベトナム抵抗集団のベースキャンプは占領されるものと信じた。その後、ベトナムの主要な10個師団は、地元住民を保護しカンプチア人民革命軍を訓練するために主要な県に残り、国境での作戦に従事した。 1985年までに、ベトナムは国際的な孤立と経済的困窮から、ソ連から送られる援助にさらに頼るようになっていた。1979年2月の中国の侵攻の際に、ソ連は14億ドル相当の軍事援助をベトナムに与え、1981年から1985年には援助額が17億ドルを数えた。またその際、ベトナムが第三次5か年計画(1981年-1985年)を実行するにあたってソ連は援助を行い、その支出のためにベトナム政府に総額54億ドルを供給し、経済援助は毎年結局18億ドルに達した。ソ連は原料品に関してはベトナムの要求の90%を、また穀物輸入の70%を負担した。数値の上ではソ連は頼りになる友好国であったが、ソ連指導部の内心はカンボジアでの行き詰まりに対するハノイの処理に不満を抱いていた。ソビエト連邦自らもまた経済改革を経験中であり、ベトナムへの援助計画の負担に腹を立てていた。1986年、ソ連政府は友好国への援助を減額すると発表し、ベトナムにとりこの減額は、経済援助の20%を失い、軍事援助の3分の1を失うことを意味した。 国際社会に再度関わり、ソ連や東ヨーロッパの改革でもたらされた経済問題を処理するために、ベトナム指導部は一連の改革に乗り出すことを決めた。1986年12月の第6回党大会で、新たにベトナム共産党総書記に任命されたグエン・ヴァン・リンは、ベトナムの経済問題を改善するため、ベトナム語で「刷新」を表すドイモイとして知られる主要な改革を打ち出した。しかしベトナム指導部は、ベトナムの酷い経済状態は1978年のカンボジア侵攻に続く国際的な孤立の結果であり、ドイモイを成功させるには急激な防衛と外交政策が必要だと結論付けた。その後、1987年6月、ベトナム共産党政治局は国際的な義務からのベトナム兵の完全な撤退や、60万人の軍縮、軍事費の比率の確立を求める決議第2号により、新しい防衛戦略を採択した。 それから1988年5月13日に、ベトナム共産党政治局は外交政策に関する決議第13号を議決し、ベトナムの対外関係の変化と多角化を進めることとした。主な目標は、国連加盟国から課された通商禁止を終わらせ、東南アジアや国際社会と融和し、最終的には外国の投資と開発援助を呼び込むものであった。この改革の一環としてベトナムは、アメリカ合衆国を長年の敵、中国を差し迫った危険な敵とみなすことをやめた。加えてベトナム当局の宣伝は、ASEANを北大西洋条約機構型の組織とみなすレッテル貼りをしなくなった。新たな改革を実行するに当たり、ベトナムはソ連の支援を受け、7万以上の兵力を有するカンプチア人民革命軍 (KPRAF) に数年分の武器を譲渡し始めた。その際、ベトナム防衛省国際関係部はカンボジアに、手にした武器は現在の作戦を維持するのに用いて、兵力を疲弊させかねない主要な作戦に加わらないよう助言した。 1988年、ベトナムはカンボジア国内に約10万の兵力を維持していると見積もられたが、外交での解決の目途がつくと、本格的に兵力の撤退を開始した。1989年4月から7月に、ベトナム兵24,000名が帰国した。それから1989年9月21日から26日までに、ベトナムのカンボジアへの関与は正式に終わりをつげ、残っていた26,000名が撤退した。それまでに、10年間の占領で15,000名が死に、3万名が負傷していた。しかしベトナムがカンボジアに組み込んだPRK政権に反対する武装抵抗集団は、1989年9月以降、ベトナム軍は依然としてカンボジア領土で作戦を続けていると主張した。例えば撤退後の西カンボジアの攻撃に加わった非共産主義集団は、国道69号線沿いのタマルプオク近くでベトナム特殊部隊の精鋭との衝突があったと報告した。それから1991年3月、ベトナムの部隊が、クメール・ルージュの攻撃を破ってカンポット州に再入城したと報告された。このような主張にもかかわらず、1991年10月23日、ベトナム政府はパリ和平協定に調印し、カンボジア和平を復活させようとした。
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