ベトナムの擲弾兵達
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 08:20 UTC 版)
フランスからの独立を目指すベトミン軍とこれを支援するソ連・中国と、インドシナの再占領を目指すフランスとこれを支援する米国との間で戦われた第一次インドシナ戦争では、独立への熱意だけを持ってベトミン軍に志願した多数の若者達が擲弾兵として養成され、彼らの擲弾攻撃によってベトナムは独立を勝ち取ったと言っても過言ではないほど重要な戦力となった。 再侵攻して来た仏軍に対抗できるだけの正規軍戦力を持たなかったベトミン軍は、都市部を放棄して山間部でのゲリラ戦を中心に戦闘を続けていた。各地の拠点に陣地を構築して防御を固めて制圧地点を確保する仏軍に対して、ベトミン軍は平服で接近して手榴弾を投擲する攻撃を頻繁に行い、仏軍兵士の安住の場所を奪い、肉体的・精神的に消耗させ続けた。しかし、ゲリラ戦だけでは敵の主力を撃滅する事は不可能であり、ベトミン軍は強力な正規軍部隊の構築を必要としていた。 ベトミン軍に参加する若者は多かったが、多くの経費・物資と時間を要する射撃訓練を大量の新兵達に行うだけの余裕は当時のベトミン軍に無く、仮に射撃訓練を実施して新兵を小銃手として育成できたとしても、第二次大戦を経験した錬度の高い職業軍人を中核とし、外人部隊のような植民地での反乱鎮圧へ特化したノウハウを有する部隊を派遣していた仏軍を相手にする戦闘では、戦術的な効果は必ずしも期待できなかった。 これに対して手榴弾を使う擲弾攻撃は、昨日までは一般人だった新兵を対象とする訓練であっても短い期間で済み、もたらされる効果は兵士の錬度とは無関係に高く、かつ安価だった。 ベトミン軍が導入した擲弾攻撃は、独ソ戦においてソ連軍が多用した人海戦術の系譜に連なっており、大量の兵員を動員できるアドバンテージしかないベトミン軍にとって他の選択肢はなかったと言えるが、その基本的な運用は以下のようなものだった。 擲弾兵(新兵)はRGD-33手榴弾だけを持ち、身軽であるよう努める。 擲弾兵は気付かれないよう可能な限り敵陣の脆弱点まで接近する。 擲弾兵は手榴弾の着火紐を手首に巻き付けて待機する。 古参兵の軽機関銃手と制圧部隊が擲弾兵の後方に展開する。 合図と共に擲弾兵の第一陣が仏軍陣地へ突撃する(仏軍陣地の機銃が防御掃射を始める) 軽機関銃手達は後方から仏軍陣地へ牽制射撃を加えて擲弾兵の突撃を支援する。 敵陣の脆弱点直前まで到達した擲弾兵達が手榴弾を一斉に投擲する(手榴弾は手を離れると同時に着火する) 擲弾兵達は仏軍陣地の機銃座を手榴弾で潰せるまで、数波の攻撃を繰り返す。 後方の制圧部隊が前進し、残敵を掃討しつつ仏軍陣地を占領する。 上記の一連のプロセスは仏軍の迫撃砲による反撃を避けるため、数分で終了させる必要があった。また、占領した陣地の維持は迅速に行われる仏軍の反撃により、短い時間しか維持できないため、ここを通過点として更に自律的に活動するゲリラ部隊が仏軍陣地の後方に侵入し、仏軍の前線司令部や物資集積所といった重要地点への攻撃を行い、最終的に堅牢な第一戦の仏軍陣地を孤立させて脆弱化させる事が戦術目標とされた。 この戦術は新兵の犠牲を前提としていたが、手榴弾の威力を敵陣に届ける手段は擲弾兵の身体である、という新兵達にも“分かり易い”コンセプトの戦術であり、高い士気がその運用を可能とした。 やがて、長期にわたる消耗戦・神経戦に疲弊した仏軍は、ラオス国境沿いの山間部を拠点とするベトミン軍への大規模な掃討作戦を実施する拠点として、米国の支援を受けてディエンビエンフーに大規模な野戦陣地を構築した。これに対してベトミン軍は周囲の山に野砲を分解して担ぎ上げ、逆に仏軍陣地を包囲して攻撃した。砲撃と対空砲火によって補給の途絶えた仏軍陣地に対して、ベトミン軍は塹壕を掘り進めながら接近しつつ擲弾攻撃を繰り返し、ついにディエンビエンフーを陥落させた。 ベトミン軍をゲリラ勢力でしかないと侮っていたフランスは、正規軍同士の交戦でも敗北を喫した事実を受けて、北部インドシナ植民地の維持が不可能である事を悟り、仏人入植者のコロニーを守るため、南部に影響力を残したまま分離独立させる途を選択し、1954年に南北ベトナムの分割独立を承認した。 その後、米国の本格介入で南部を主戦場とするベトナム戦争が開始されると、南部ベトナムで米軍と交戦したベトコンとその支持者達は、米兵への不意打ち攻撃(往々にして死を前提とした自爆攻撃だった)や都市部でのテロ攻撃に、老若男女を問わず容易に使用できる手榴弾を多用した。 米軍の撤退と南ベトナム政府軍の崩壊で、ベトナム戦争は北ベトナムの勝利に終わったが、その後のカンボジア侵攻への報復として中国軍がベトナム北部へ侵攻し中越戦争が勃発する。 ベトナム侵攻に際して、中国軍はカンボジア侵攻によるベトナム軍主力の不在を突き、62式軽戦車を先頭に立てて山岳部密林地帯を突破し、紅河デルタ地帯に進出してから電撃戦によって首都ハノイを制圧する事を図っていた。 これに対してベトナム軍は、ソ連の軍事衛星からの情報によって中国側の戦争準備を早期に察知し、その侵攻経路や作戦形態について事前に検討を行い、電撃戦の主要な打撃力となる装甲車両を、密林地帯通過中で動きが遅いうちに歩兵(首都防衛用の正規軍を温存するため民兵が動員された)が可能な限り撃破して、その攻勢を頓挫させる事を初動防衛戦での目標とし、事前演習を繰り返していた。 実際の戦闘では、対米戦で多用されたRPG-7や、旧日本陸軍が大戦末期に開発した刺突爆雷をモデルにした対戦車爆雷を手にした擲弾兵が肉薄攻撃を行って多数の装甲車両を撃破する事に成功し、これを失った中国軍は伝統的な人海戦術によってベトナム軍防衛線の突破を図って大量の犠牲者を出し、更に巧妙に後退したベトナム軍に領内深く引き込まれてから空・陸協働攻撃の前に粉砕され、死体の山を残して撤退した。これに懲りた中国軍は自軍の現代化に真剣に取り組み、1984年の中越国境紛争ではベトナム側との接近戦を避け野砲や多連装ロケット砲などの大量の火砲と砲兵部隊により砲火の雨を浴びせる戦法を取る事でベトナム兵を撃退している。
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