スペイン王国時代とは? わかりやすく解説

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スペイン王国時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/09 07:43 UTC 版)

カタルーニャの歴史」の記事における「スペイン王国時代」の解説

1469年アラゴン王フェルナンド(後のフェルナンド2世)とカスティーリャ王イサベルイサベル1世として1474年即位)が結婚した1479年にはフェルナンド2世アラゴン王となり、この年スペイン統一された年、カタルーニャにとって政治的独自性奪われた年であるとされる。この婚姻によってアラゴン=カタルーニャ連合王国カスティーリャ王国統合されたわけではなくそれぞれの領域法制度は維持された。しかし、当時カタルーニャアラゴンカスティーリャ国力違いは明白であった14世紀15世紀カタルーニャ人口激減し地中海覇権オスマン帝国奪われた。さらには大航海時代到来したことで、ヨーロッパにおける商業活動中心地中海から大西洋移っていた。カスティーリャ王国独自の事業であったアメリカ大陸との貿易植民活動から、カタルーニャアラゴン排除された。16世紀と17世紀カタルーニャにとって「衰退の時代」と呼ばれる地方の自由は尊重されたものの中央集権的な傾向強まりフェルナンド2世副王置いてカタルーニャ統治した1640年から10年余り続いた収穫人戦争カタルーニャ反乱)は、スペイン世界帝国から転落する最終的な引き金となったとも言える。この時、カタルーニャフランス王国への編入決議しフランス軍迎え入れているが、この交渉の際にも時代遅れとも言える中世的な特権保持主張しフランス宰相であったリシュリュー辟易させたと言われている。これは、中世から続くカタルーニャ自治意識踏まえれば、フランス絶対王政拒否感を示したのは無理のないことだった。また、フランス軍進駐した後もカタルーニャは全くフランス軍協力しようとせず、呆れたフランス軍カタルーニャ防衛放棄して撤退したほどであった要するにこの時のカタルーニャは、「自分たちの自治権さえ保障されればどこの国の王を戴こう構わない」という考え方だったのである1652年降伏したバルセロナスペイン王国フェリペ4世支配下戻りフアン・ホセ・デ・アウストリア副王によって融和政策がとられた。フランス・スペイン戦争(1635年-1659年)後の1659年結ばれたピレネー条約では、カタルーニャ意思とは無関係にルセリョー(英語版)郡(ペルピニャンなど)、クンフレン(英語版)郡(プラードなど)、バリャスピー(英語版)郡(セレなど)、カプシー(英語版)郡(Formiguèresなど)、アルタ・サルダーニャ(英語版)郡などがフランスへ割譲された(フランス領カタルーニャ)。

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スペイン王国時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 19:48 UTC 版)

バレンシア (スペイン)」の記事における「スペイン王国時代」の解説

スペイン帝国 スペイン王国新大陸発見すると、ヨーロッパ経済地中海中心から大西洋中心貿易活動移行したスペイン王国カスティーリャ王国アラゴン連合王国合併して成立していたが、新大陸征服搾取カスティーリャ王国独占しカタルーニャ人アラゴン人マヨルカ同様にバレンシア人も大西洋をまたぐ貿易への参加禁じられた。事業喪失直面しバレンシア深刻な経済危機陥った1519年から1523年にはハプスブルク家出身カルロス1世に対して、ジェルマニアの反乱英語版)として知られる職人組合反乱バレンシア起こった。この反乱君主制対す反発封建制対す運動であり、1519年黒死病の流行前に都市から逃れていた封建貴族対す社会的反乱の意味合いがあった。反イスラーム運動という側面もあり、アラゴン連合王国に住むムデハルスペイン語版)(キリスト教徒再征服地に住むイスラーム教徒残留者)に対す暴動起こしムデハルキリスト教への強制改宗義務課したアラゴン王ジェルメーヌ・ド・フォワ残酷なまでに反乱主導者抑圧し、このことはカルロス1世への権力集中加速させた。ジェルメーヌ・ド・フォワ100人以上の死刑状に署名したとされており、800人もの死刑が行われた可能性がある。 カトリック両王時代1502年イスラーム教徒カトリックへの改宗追放選択迫られた。これによってカトリック改宗したイスラーム教徒モリスコと呼ぶが、1609年にはユダヤ教徒モリスコ追放令モリスコ追放)が出されスペイン王国政府1614年までの間にモリスコに対してスペイン王国から離れることを命じた。彼らはアラゴン連合王国範囲集中しており、アラゴン連合王国では人口の1/5を、バレンシア王国では実に人口の1/3を構成していた。 彼らの亡命によっていくつかの貴族財政的な破滅状態に陥り、1613年にはタウラ・デ・カンビが破産したユダヤ教徒モリスコ追放によって17世紀バレンシアでは経済的な危機深まったスペイン王国農業労働力多く失った貴族を救うために努力したが、これによって都市経済事情悪化した1640年から1652年には収穫人戦争起こりスペイン他地域から軍隊到着さらなる経済難の時代迎えたブルボン朝 1702年から1709年まで続いたスペイン継承戦争時、バレンシア神聖ローマ皇帝カール6世の側についたブルボン朝軍はシャティバのような重要な都市燃やしている。1707年4月25日アルマンサの戦いブルボン朝勝利すると、フェリペ5世バレンシアカール6世についた罰として特権廃止命じた。ヌエバ・プランタ王令によって特権廃止され都市カスティーリャ勅許によって支配された。これによってバレンシア王国政治的法的な独立終了バレンシア衰退頂点達しバレンシア王国首都オリウエラ移転した宗教的文化的政治的重要性を持つオリウエラバレンシア地方南端部の町であり、異な総督領であるムルシアからわずかな距離にあったこのためバレンシア総督ルイス・アントニオ・ベルーガ・イ・モンカーダ(英語版枢機卿バレンシア王国首都移転反対していたが、フェリペ5世コルテスに対してアントニオ・ベルーガ枢機卿面会するように命じたオリウエラスペイン継承戦争中にバテンシアを砲撃略奪しており、アントニオ・ベルーガ枢機卿フェリペ5世への抗議の意味込めてバレンシア総督の座を辞任フェリペ5世はついに折れて首都の座をバレンシア戻したバレンシア有していた特権や諸機関廃止されたことなどにより、市政最高指揮官はもはや選出されず、代わりに国王が暮らすマドリードから直接任命された。 18世紀中にはバレンシア経済回復し、絹製品セラミック産業成長したブルボン朝カルロス3世治世1759年-1788年)の豊かさの例としてジュスティシア宮殿あげられる18世紀ヨーロッパ啓蒙主義の時代であり、バレンシアこの人主義的理想は、フランスドイツ思想家との関係を保っていたグレゴリー・マイアンスやペレス・バイエルなどに影響与えた1776年には国家友人経済社会設立されバレンシア農業工業など様々な改良導入し文化的市民的経済的な制度促進した

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スペイン王国時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 09:34 UTC 版)

カタルーニャ州」の記事における「スペイン王国時代」の解説

1479年スペイン統一された年であり、カタルーニャにとっては政治的独自性奪われた年であるとされる14世紀15世紀カタルーニャ人口激減し地中海覇権オスマン帝国奪われた。さらには大航海時代到来したことで、ヨーロッパにおける商業活動中心地中海から大西洋移っていた。カタルーニャアメリカ大陸との貿易植民活動から排除され16世紀と17世紀カタルーニャにとって「衰退の時代となった地方の自由は尊重されたものの中央集権的な傾向強まりフェルナンド2世副王置いてカタルーニャ統治した1640年から収穫人戦争カタルーニャ反乱)が10年あまり続いたが、降伏したバルセロナスペイン王国フェリペ4世支配下戻っている。フランス・スペイン戦争(1635年-1659年)後の1659年結ばれたピレネー条約では、カタルーニャ意思とは無関係に北カタルーニャフランスへ割譲された。 1700年にはスペイン継承戦争1701年-1714年)が起こったが、第3次バルセロナ包囲戦経て1714年9月11日バルセロナ陥落しカタルーニャスペイン軍占領下置かれた。1716年布告され新国家基本法英語版)によって議会政府など廃止され公的な場でカタルーニャ語使用することが禁じられた。18世紀前半には特に農業発展18世紀後半には商業発展した。また同じく18世紀後半には綿織物工業興りカタルーニャスペイン随一経済先進地域となった19世紀1836年にはスペインでは最初に蒸気機関導入し600人から700人の労働者使役するような木綿を扱う大工場出現したこのような産業革命スペイン他地域では主に外国資本導入によって行ったのに対しカタルーニャ地元資本押し進めていった。産業革命に伴いカタルーニャ内では農村部から都市部へと人口流入発生し都市部では衛生状態悪化どの様々な都市問題引き起こした例えば、1836年人口13万人程度であったカタルーニャ中心都市であるバルセロナでは、産業勃興に伴い一気5万人を超える人口流入発生した結果深刻な衛生状態悪化悩まされることとなった

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