スペイン王国時代
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「カタルーニャの歴史」の記事における「スペイン王国時代」の解説
1469年、アラゴン王子フェルナンド(後のフェルナンド2世)とカスティーリャ王女イサベル(イサベル1世として1474年に即位)が結婚した。1479年にはフェルナンド2世がアラゴン王となり、この年はスペインが統一された年、カタルーニャにとって政治的独自性を奪われた年であるとされる。この婚姻によってアラゴン=カタルーニャ連合王国とカスティーリャ王国が統合されたわけではなく、それぞれの領域の法制度は維持された。しかし、当時のカタルーニャ=アラゴンとカスティーリャの国力の違いは明白であった。14世紀と15世紀にカタルーニャの人口は激減し、地中海の覇権はオスマン帝国に奪われた。さらには大航海時代が到来したことで、ヨーロッパにおける商業活動の中心は地中海から大西洋に移っていた。カスティーリャ王国独自の事業であったアメリカ大陸との貿易や植民活動から、カタルーニャ=アラゴンは排除された。16世紀と17世紀はカタルーニャにとって「衰退の時代」と呼ばれる。地方の自由は尊重されたものの中央集権的な傾向は強まり、フェルナンド2世は副王を置いてカタルーニャを統治した。 1640年から10年余り続いた収穫人戦争(カタルーニャ反乱)は、スペインが世界帝国から転落する最終的な引き金となったとも言える。この時、カタルーニャはフランス王国への編入を決議してフランス軍を迎え入れているが、この交渉の際にも時代遅れとも言える中世的な特権の保持を主張し、フランスの宰相であったリシュリューを辟易させたと言われている。これは、中世から続くカタルーニャの自治意識を踏まえれば、フランスの絶対王政に拒否感を示したのは無理のないことだった。また、フランス軍が進駐した後もカタルーニャは全くフランス軍に協力しようとせず、呆れたフランス軍がカタルーニャの防衛を放棄して撤退したほどであった。要するにこの時のカタルーニャは、「自分たちの自治権さえ保障されればどこの国の王を戴こうが構わない」という考え方だったのである。1652年に降伏したバルセロナはスペイン王国のフェリペ4世の支配下に戻り、フアン・ホセ・デ・アウストリア副王によって融和政策がとられた。フランス・スペイン戦争(1635年-1659年)後の1659年に結ばれたピレネー条約では、カタルーニャの意思とは無関係にルセリョー(英語版)郡(ペルピニャンなど)、クンフレン(英語版)郡(プラードなど)、バリャスピー(英語版)郡(セレなど)、カプシー(英語版)郡(Formiguèresなど)、アルタ・サルダーニャ(英語版)郡などがフランスへ割譲された(フランス領カタルーニャ)。
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スペイン王国時代
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「バレンシア (スペイン)」の記事における「スペイン王国時代」の解説
スペイン帝国 スペイン王国が新大陸を発見すると、ヨーロッパの経済は地中海中心から大西洋中心の貿易活動に移行した。スペイン王国はカスティーリャ王国とアラゴン連合王国が合併して成立していたが、新大陸の征服と搾取はカスティーリャ王国が独占し、カタルーニャ人、アラゴン人、マヨルカ人同様に、バレンシア人も大西洋をまたぐ貿易への参加を禁じられた。事業の喪失に直面し、バレンシアは深刻な経済危機に陥った。1519年から1523年にはハプスブルク家出身のカルロス1世に対して、ジェルマニアの反乱(英語版)として知られる職人組合の反乱がバレンシアで起こった。この反乱は君主制に対する反発、封建制に対する運動であり、1519年の黒死病の流行前に都市から逃れていた封建貴族に対する社会的反乱の意味合いがあった。反イスラーム運動という側面もあり、アラゴン連合王国に住むムデハル(スペイン語版)(キリスト教徒の再征服地に住むイスラーム教徒の残留者)に対する暴動を起こし、ムデハルにキリスト教への強制改宗の義務を課した。アラゴン王妃ジェルメーヌ・ド・フォワは残酷なまでに反乱の主導者を抑圧し、このことはカルロス1世への権力集中を加速させた。ジェルメーヌ・ド・フォワは100人以上の死刑状に署名したとされており、800人もの死刑が行われた可能性がある。 カトリック両王時代の1502年、イスラーム教徒はカトリックへの改宗か追放の選択を迫られた。これによってカトリックに改宗したイスラーム教徒をモリスコと呼ぶが、1609年にはユダヤ教徒とモリスコの追放令(モリスコ追放)が出され、スペイン王国政府は1614年までの間にモリスコに対してスペイン王国から離れることを命じた。彼らはアラゴン連合王国の範囲に集中しており、アラゴン連合王国では人口の1/5を、バレンシア王国では実に人口の1/3を構成していた。 彼らの亡命によっていくつかの貴族は財政的な破滅状態に陥り、1613年にはタウラ・デ・カンビが破産した。ユダヤ教徒とモリスコの追放によって17世紀のバレンシアでは経済的な危機が深まった。スペイン王国は農業労働力の多くを失った貴族を救うために努力したが、これによって都市の経済事情は悪化した。1640年から1652年には収穫人戦争が起こり、スペインの他地域から軍隊が到着、さらなる経済難の時代を迎えた。 ブルボン朝 1702年から1709年まで続いたスペイン継承戦争時、バレンシアは神聖ローマ皇帝カール6世の側についた。ブルボン朝軍はシャティバのような重要な都市を燃やしている。1707年4月25日にアルマンサの戦いでブルボン朝が勝利すると、フェリペ5世はバレンシアがカール6世側についた罰として特権の廃止を命じた。ヌエバ・プランタ王令によって特権が廃止され、都市はカスティーリャの勅許によって支配された。これによってバレンシア王国の政治的・法的な独立が終了、バレンシアの衰退が頂点に達し、バレンシア王国の首都はオリウエラに移転した。宗教的・文化的・政治的重要性を持つオリウエラはバレンシア地方南端部の町であり、異なる総督領であるムルシアからわずかな距離にあった。このためにバレンシア総督ルイス・アントニオ・ベルーガ・イ・モンカーダ(英語版)枢機卿はバレンシア王国の首都移転に反対していたが、フェリペ5世はコルテスに対してアントニオ・ベルーガ枢機卿と面会するように命じた。オリウエラはスペイン継承戦争中にバテンシアを砲撃・略奪しており、アントニオ・ベルーガ枢機卿はフェリペ5世への抗議の意味を込めてバレンシア総督の座を辞任、フェリペ5世はついに折れて首都の座をバレンシアに戻した。バレンシアが有していた特権や諸機関が廃止されたことなどにより、市政の最高指揮官はもはや選出されず、代わりに国王が暮らすマドリードから直接任命された。 18世紀中にはバレンシアの経済が回復し、絹製品やセラミック産業が成長した。ブルボン朝カルロス3世の治世(1759年-1788年)の豊かさの例としてジュスティシア宮殿があげられる。18世紀のヨーロッパは啓蒙主義の時代であり、バレンシアでこの人文主義的理想は、フランスやドイツの思想家との関係を保っていたグレゴリー・マイアンスやペレス・バイエルなどに影響を与えた。1776年には国家の友人経済社会が設立され、バレンシアで農業や工業などに様々な改良を導入し、文化的・市民的・経済的な制度を促進した。
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スペイン王国時代
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1479年はスペインが統一された年であり、カタルーニャにとっては政治的独自性を奪われた年であるとされる。14世紀と15世紀にカタルーニャの人口は激減し、地中海の覇権はオスマン帝国に奪われた。さらには大航海時代が到来したことで、ヨーロッパにおける商業活動の中心は地中海から大西洋に移っていた。カタルーニャはアメリカ大陸との貿易や植民活動から排除され、16世紀と17世紀はカタルーニャにとって「衰退の時代」となった。地方の自由は尊重されたものの中央集権的な傾向は強まり、フェルナンド2世は副王を置いてカタルーニャを統治した。1640年から収穫人戦争(カタルーニャ反乱)が10年あまり続いたが、降伏したバルセロナはスペイン王国のフェリペ4世の支配下に戻っている。フランス・スペイン戦争(1635年-1659年)後の1659年に結ばれたピレネー条約では、カタルーニャの意思とは無関係に北カタルーニャがフランスへ割譲された。 1700年にはスペイン継承戦争(1701年-1714年)が起こったが、第3次バルセロナ包囲戦を経て1714年9月11日にバルセロナが陥落し、カタルーニャはスペイン軍の占領下に置かれた。1716年に布告された新国家基本法(英語版)によって議会や政府などが廃止され、公的な場でカタルーニャ語を使用することが禁じられた。18世紀前半には特に農業が発展、18世紀後半には商業が発展した。また同じく18世紀後半には綿織物工業が興り、カタルーニャはスペイン随一の経済先進地域となった。19世紀の1836年にはスペインでは最初に蒸気機関を導入し、600人から700人の労働者を使役するような木綿を扱う大工場も出現した。このような産業革命をスペインの他地域では主に外国資本の導入によって行ったのに対し、カタルーニャは地元資本で押し進めていった。産業革命に伴いカタルーニャ内では農村部から都市部へと人口の流入が発生し、都市部では衛生状態の悪化などの様々な都市問題を引き起こした。例えば、1836年に人口が13万人程度であったカタルーニャの中心都市であるバルセロナでは、産業勃興に伴い一気に5万人を超える人口流入が発生した結果、深刻な衛生状態の悪化に悩まされることとなった。
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