スペイン王位継承問題とエムス電報事件
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「普仏戦争」の記事における「スペイン王位継承問題とエムス電報事件」の解説
詳細は「エムス電報事件」を参照 戦争の直接的な要因は、スペイン1868年革命(スペイン語版)の末に空位となっていたスペイン王位に、プロイセン国王の親戚である、ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯家(英語版)のレオポルトが推挙された事にある。プロイセンとスペインがホーエンツォレルン家の領国となれば、フランスは東西から挟まれる形になるため、フランスはこれに強く反発した。フランスの外交的圧力により、ホーエンツォレルン家からの推挙は取り下げられた。 スペイン王位継承問題は、このようにフランスの外交的勝利で終結するかに見えた。ところが、フランスはこれを明文化させようと、7月13日、温泉保養地バート・エムスに滞在中であったプロイセン国王ヴィルヘルム1世に大使を派遣。しかし、ヴィルヘルム1世はこれを非礼であるとして拒絶した。 同日午後、この事実を電報で知った、プロイセン首相ビスマルクは、この問題を煽ってフランス側から宣戦させることを企図する。ビスマルクは、フランスの非礼と国王の怒りを強調して編集(情報操作)し、7月14日に各国報道機関へ向けて発表した。 この日はフランス革命記念日であり、大使の受けた恥辱にナショナリズムを刺激されたフランス世論に促され、ナポレオン3世は翌日7月15日に動員令を発令。翌日にはプロイセンも動員令を発した。動員令から4日後の1870年7月19日、エムス電報事件から1週間もたたない電撃的な速さで、フランスはプロイセンに宣戦布告した。外交的な問題に加えて、ナポレオン3世と首相エミール・オリヴィエは国内的な政治問題を解決する必要性からも、宣戦の必要があると考えた。 一方のプロイセンもフランス同様、国王への侮辱に対し民衆がこの事件にナショナリズムを刺激され、さらにこれが南独にも波及し、諸邦は直ちにプロイセン側に立った。
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