スペイン王国の中の王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 05:24 UTC 版)
1512年にはカスティーリャ摂政フェルナンド5世がナバラ王国に侵攻して併合し、ナバラ王国はカスティーリャ王国の副王領となったが、立法・行政・司法の各機構はナバラ王国に残された。ナバラ人はフランス王朝の終焉をそれほど残念には思わず、カスティーリャ王国内での自治権の保持に力を注いだ。1530年時点で、現在のナバラ州に相当する地域はスペイン全体の2.5%の人口を有していたが、スペイン王国に統合された影響もあり、1591年には1.9%にまで減少している。 ナバラ王位にあったカタリナとフアン3世はピレネー山脈北部に逃れ、1555年までに、アルブレ家の女王ジャンヌ・ダルブレが率いるナヴァール王国(ナヴァール=ベアルン王国)が確立された。ピレネー山脈の南側では、1610年にアンリ4世がスペイン側のナバラ王国に進軍の準備を行うまで、副王領としての王国は不安定なバランスの上にあった。ナヴァール王エンリケ3世が1589年にフランス王アンリ4世として即位すると、歴代のフランス王はナヴァール王を兼ねた。フランス側のナヴァール王国は1620年にフランス王国の一部となったが、1789年まで独自の制度と権限を有していた。 17世紀のナバラでは農業がほぼ唯一の経済であり、穀物やブドウの生産、家畜の飼育などが行われ、小麦・羊毛・ワインなど小規模の輸出貿易をおこなった。スペイン海軍の船にはナバラ産の材木が使用され、隣接するギプスコアに鉄鉱石を運んだ。17世紀におけるナバラとバスク全体の人口は約35万人だった。この世紀には黒死病の再流行によってスペイン全体の人口が850万人から700万人に減少しており、ナバラやバスクは黒死病による死者は少なかったが、社会的流出が多かったために人口は増加しなかった。 1659年にはピレネー条約でスペイン・フランスの国境が確定し、北ナバラと南ナバラの分断によって長年燻っていたナバラ問題は立ち消えた。スペイン内でフエロを持つ他地域、アラゴン、カタルーニャ、バスクと比べても、ナバラは高い水準の自治権を有しており、ナバラのみは例外的に司法権の維持を許された。 18世紀初頭でもナバラは、なお「王国」と呼ばれていた。1722年にスペイン・フランス間の税関がエブロ川に移されたおかげでフランスとの貿易が盛んとなり、18世紀のナバラでは商業が発達した。農民はスペインの他地方よりも豊かな暮らしをし、人口の5-10%を占める貴族の割合はスペインでもっとも高かった。18世紀半ばには道路網の整備が着手され、現在のパンプローナ市庁舎を含む壮大なバロック様式の建物が至るところに建てられた。18世紀末時点で、スペイン王国内で独自の司法機関、副王、議員団、会計院を持っていた地域はナバラのみだった。 フランスとスペインを含む連合軍の間でスペイン独立戦争が起こった19世紀初頭、フランスの憲法起草者[誰?]はナバラ、スペイン・バスク、フランス領バスクを統合して新フェニキアという名称のバスク統一国を作ることを計画した。ナポレオン自身は、エブロ川以北をスペインと分断させてフランスに編入させることを計画した。1813年のスペイン独立戦争後のスペインでは自由主義的な思想が目立つようになり、中央集権体制の支持者が増加した。19世紀のスペインでは王位継承権をめぐる内乱(カルリスタ戦争)が三度に渡って起こっており、この内乱はブルジョアなどの自由主義勢力と教会や貴族などの絶対主義勢力(カルリスタ)間の代理戦争の意味合いを呈していた。マドリードの中央政府は自由主義的な政策を打ち出していたため、伝統的な諸特権を享受したいバスク地方やナバラ地方にはドン・カルロスの支持者(カルリスタ)が多かったが、第一次カルリスタ戦争(1833-1839)はベルガラ協定(英語版)でカルリスタ側の敗北が決定した。この敗北でカルリスタは強大な軍事力は失ったものの政治的重要性は保ち、後のバスク地方やカタルーニャ地方で起こる民族主義運動につなげた。同時期にスペイン政府は行政改革の一環として県の設置を進めており、ナバラ王国に相当する領域にはナバラ県が設置されている。
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