スタジオジブリ設立とは? わかりやすく解説

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スタジオジブリ設立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 09:58 UTC 版)

宮崎駿」の記事における「スタジオジブリ設立」の解説

1985年徳間書店出資得てスタジオジブリ設立し以後制作基盤とした。1986年『天空の城ラピュタ』1988年の『となりのトトロ』では興行成績それほど振るわなかったが、その後両作の人気著しく高まりぬいぐるみなどグッズの販売ビデオ販売収入により、ジブリ経営支えた。 また1986年頃、宮崎推薦した押井守によるルパン三世劇場版第3作頓挫後にはスタジオジブリで押井を監督据え宮崎脚本による作品アンカー』を準備するなどしている。 『魔女の宅急便』(1989年)は、当初片渕須直監督により進められていたがスポンサー意向により降板宮崎が後を継いだ本作はその年の興行トップとなる大ヒットとなる。これを受けてジブリ労働環境整えるため社員化を決定する。 『紅の豚』(1992年)は、もともと日本航空機内上映される中編として企画されたが、次第構想膨らみ長編作品として公開された。 『耳をすませば』1995年)で、脚本絵コンテ、製作プロデューサー担当1997年公開された『もののけ姫』は、ジブリ史上最大の製作費、宮崎監督引退説などが話題になった事もあり、『E.T.』が持っていた日本の映画興行記録15年ぶりに塗り替える大ヒットとなった宮崎駿完成後の打ち上げの際、これが最後作品となると発言し大きく報道されたが、翌年引退宣言撤回した2001年発表した千と千尋の神隠し』は興行記録をさらに塗り替え観客動員2,350万人興行収入308億円と、日本における映画史上第1位の新記録作った日本国外からの評価も非常に高く翌年ベルリン国際映画祭では日本としては39年ぶり、アニメーションとして史上初の金熊賞受賞し2003年にはアカデミー賞長編アニメ賞を受賞した。『千と千尋の神隠し』の完成記者会見でも「もう長編アニメ映画は無理ですね」と引退宣言している。 2004年公開『ハウルの動く城』は、もともと細田守監督作品として進められていたが降板し、宮崎が後を継いだ公開2日目観客動員数110万人興行収入14億8,000万円日本映画歴代最高のオープニング飾り映画史第2位大ヒット記録。さらにヴェネツィア国際映画祭オゼッラ賞、ニューヨーク映画批評家協会最優秀アニメーション賞を受賞し、その年の米アカデミー賞長編アニメ部門に再びノミネートするなど前作同様、日本国外においても高く評価された。2005年には、ヴェネツィア国際映画祭において優れた世界的映画人に贈られる栄誉金獅子賞受賞2006年には、アカデミー賞選考委員選ばれ招待状送付された。宮崎はこれ以前2度選ばれているが、創作活動専念したいなどの理由から就任辞退した2006年公開の『ゲド戦記』は、宮崎1983年刊行したシュナの旅」(徳間書店刊)が原案としてクレジットされており、各所同書登場する設定用いられている。また、鈴木敏夫宮崎吾朗によれば、イメージボードやアイデアスケッチ等を書いていたようである。なお、「ゲド戦記原作者ル=グウィン宮崎監督務めることを希望していたが、息子吾郎監督となった2008年7月19日に、新作『崖の上のポニョ』公開公開後1か月興行収入100億円を突破する興行成績挙げた『崖の上のポニョ』作中体力的にも本作が最後長編になるだろうと述べていた。しかし、映画公開後宮崎『崖の上のポニョ』観客動員数より、『ハウルの動く城』の方が高かった事実知ってショックを受け、「もう一本作る」とやる気出し始めたという。今後作画に関して『崖の上のポニョ』のように手描きでいくとの意向であるが、以前のような作画に戻る可能性もあると示唆した最新作内容は、自伝アニメーションであるという。マスコミ前に出ることを嫌う時期もあったが、『崖の上のポニョ』の製作時にNHKによって2度、「プロフェッショナル 仕事の流儀」にて密着ドキュメント作られた。アニメ作り苦悩奮闘する素の宮崎駿の姿が放送され大きな反響呼んだまた、2008年11月20日日本外国特派員協会招かれアニメ界の危惧含め熱く論弁した。2012年には、文化功労者選ばれた。 2013年に、自身漫画作品、『風立ちぬ』を原作とした、アニメーション映画風立ちぬ』を公開同年9月1日宮崎長編映画の製作から引退することをスタジオジブリ社長星野康二発表

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スタジオジブリ設立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 04:39 UTC 版)

高畑勲」の記事における「スタジオジブリ設立」の解説

『風の谷のナウシカ』制作したトップクラフトは既に解散していた為、宮崎駿鈴木敏夫『天空の城ラピュタ』制作してくれるアニメーションスタジオを探していた。その時高畑が「なら、いっその事スタジオ作ってしまいませんか」と宮崎鈴木等に提案した。これを受け、1985年徳間書店宮崎等の映画製作の為、スタジオジブリ設立した高畑宮崎請われスタジオジブリ参加したが、高畑は「作り手経営責任背負うべきではない」と主張し役員への就任辞退した亡くなるまでスタジオジブリ所属していたものの、経営関わる役職には就かなかった。また、ジブリとは別に高畑個人様々な窓口事務を行う、畑事務所持っていた。 1988年『火垂るの墓』監督務める。公開時点で清太が野菜泥棒をして捕まる場面等、未完成シーン残ったままとなり、僅かながらも未完成のままでの劇場公開という不祥事に、一旦アニメ演出家廃業決意したが、後に宮崎駿後押し受けて1991年に『おもひでぽろぽろ』で監督復帰している。 『おもひでぽろぽろ』を作る前にしかたしん原作の『国境』を元に満州国朝鮮半島における人々日常生活淡々と描く中で、日本人現地人差別実態詳らかにする企画進めていたが、1989年起きた天安門事件影響企画流れた1994年には自ら原作を手がけた『平成狸合戦ぽんぽこ』を公開配給収入26億円を得て邦画ではトップとなる。これは高畑監督作品でも最高の成績となったまた、スタジオジブリ時代監督作では唯一のオリジナル作品である。 1999年に『ホーホケキョ となりの山田くん』を公開した後は、公開作品10年以上途切れた

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