決裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 17:02 UTC 版)
「ウィリアム・C・デュラント」の記事における「決裂」の解説
その後、パーキンスとデュラントはパーキンスが用意したニューヨーク=シカゴ間の列車上の特別客室で話合いをもった。彼らが直接話し合ったのは初めてだった。デュラントは両者合併の資本金を150万ドルと見積もったがモルガンのパーキンズは渋々50万ドルだけ新株引き受けに応じただけだった。このとき、デュラントが「自動車は年産50万台となる」とパーキンズに語ったが、保守的な金融界のパーキンズにとってこれは大風呂敷としか思えず、「デュラントは分別のない人物」という印象をもった。一方のデュラントは現金を出さないモルガンを非難した。 その後、デュラントはニューヨークのサタリーの事務所を訪れ、カーティス・R・ハザウェイと会った。事務所の若い弁護士で、GM設立後に財務担当役員になる人物である。ハザウェイがデュラントをモルガンの弁護士フランシス・リンデ・ステットソン(Francis Lynde Stetsonの事務所へ案内した。ステットソンは「モルガンの司法長官」とよばれていた辣腕(らつわん)顧問弁護士だった。話し合いは穏やかにはじまったが、途中からステットソンがデュラントのビュイック株主代表権に対し嫌疑をかけた。これに加えて「合併合議開催中にもかかわらずデュラント(あるいはデュラントの周囲の株主の誰か)がモルガンを通さずに個別の株売買をおこなったことはモルガンに対する背信行為となる」と主張した。デュラントにはこのステットソンの主張によってモルガンの企業合同に対する考えが「株価の最大化を狙う利食い目的での投資」のみにあり、個別の会社や自動車産業のあるべき姿を考えているわけではないと映った。 この時デュラントがモルガンにあたえた印象は以降のGM経営においてもその金策に影響をおよぼした。 1908年7月31日付けニューヨークタイムズ に「自動車業界で初めての大コンビネーション計画が進行中であるが、同計画によると、この企業合同で設立される新会社名はインターナショナル・モーター・カー・カンパニー。農業コングロマリットのインターナショナル・ハーベスター社と、同資本系列のインターナショナル・マーカンタイル・マリン社が資本参加する。」と掲載された。「資本2500万ドルで内訳は普通株1100万ドル、優先株1400万ドル。ビュイックとマックスウェル=ブリスコーが最初に合併し、続いていくつかが合併に加わる。モルガン企業の幾人かが参加し、銀行自体はこの取引に直接は参画していない。合併は9月までに事業開始の予定。」情報ソースに関しての記述はない。小さなコラムものだったが、事実をかなり正しく反映した踏み込んだ内容だった。 ブリスコーは8月4日にニューヨークに戻り、モルガンの状況を知って驚いた。モルガンは混乱状態だったとデュラントに書き送った。8月末にはモルガンとデュラントは袂を分かった。
※この「決裂」の解説は、「ウィリアム・C・デュラント」の解説の一部です。
「決裂」を含む「ウィリアム・C・デュラント」の記事については、「ウィリアム・C・デュラント」の概要を参照ください。
決裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 02:57 UTC 版)
11月4日、源義経の軍が布和の関(不破の関)にまで達した。義仲は頼朝の軍と雌雄を決する覚悟をしていたが、7日になって義仲を除く行家以下の源氏諸将が院御所の警護を始める。頼朝軍入京間近の報に力を得た院周辺では、融和派が逼塞し主戦派が台頭していた。『愚管抄』によると、北面下臈の平知康・大江公朝が「頼朝軍が上洛すれば義仲など恐れるに足りない」と進言したという。特に知康は伊勢大神宮の託宣を受けたと称するなど(『吉記』11月15日条)、主戦派の急先鋒だった。8日、院側の武力の中心である行家が、重大な局面にも関わらず平氏追討のため京を離れた。後白河と義仲の間には緊迫した空気が流れ、義仲は義経の手勢が少数であれば入京を認めると妥協案を示した(『玉葉』11月16日条)。 16日になると、後白河は延暦寺や園城寺の協力をとりつけて僧兵や石投の浮浪民などをかき集め、堀や柵をめぐらせ法住寺殿の武装化を進めた。摂津源氏の多田行綱、美濃源氏の源光長らが味方となり、圧倒的優位に立ったと判断した後白河は義仲に対して最後通牒を行う。その内容は「ただちに平氏追討のため西下せよ。院宣に背いて頼朝軍と戦うのであれば、宣旨によらず義仲一身の資格で行え。もし京都に逗留するのなら、謀反と認める」という、義仲に弁解の余地を与えない厳しいものだった(『玉葉』11月17日条、『吉記』『百錬抄』11月18日条)。 これに対して義仲は「君に背くつもりは全くない。頼朝軍が入京すれば戦わざるを得ないが、入京しないのであれば西国に下向する」と返答した。兼実は「義仲の申状は穏便なものであり、院中の御用心は法に過ぎ、王者の行いではない」としている(『玉葉』11月18日条)。義仲の返答に後白河がどう対応したのかは定かでないが、17日夜に八条院、18日に上西門院、亮子内親王が法住寺殿を去り、北陸宮も逐電、入れ替わるように後鳥羽天皇、守覚法親王、円恵法親王、天台座主・明雲が御所に入っており、義仲への武力攻撃の決意を固めたと思われる。
※この「決裂」の解説は、「法住寺合戦」の解説の一部です。
「決裂」を含む「法住寺合戦」の記事については、「法住寺合戦」の概要を参照ください。
決裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 08:32 UTC 版)
「NO LIMIT (プロレス)」の記事における「決裂」の解説
2011年3月、内藤がシングルで目覚ましい成長をし始めた事に高橋が不満を抱き、2人の間に亀裂が発生する。 4月20日、大阪尼崎大会での試合で不協和音はあるものの関係が修復する。 5月3日、博多大会「レスリングどんたく」でIWGPタッグベルトを賭けてバッドインテンションズ(ジャイアント・バーナード・カール・アンダーソン)と対戦するも、不協和音が未だに修復できていなかった為に誤爆が多発、内藤がバーナードにフォール負けを喫してしまった。試合終了直後、高橋は内藤に近づくなり「内藤!お前何やってんだよ!?」と叱責した後、内藤を置き去りにして退場、2人の関係が絶望的になる。 5月26日、田中将斗を加えての3人タッグマッチを行うも、高橋がコンプリート・プレイヤーズ(田中将斗・邪道・外道)と結託して、高橋の東京ピンプスと4人による袋叩きで内藤を攻撃した後「内藤ちゃーん! お前よ、もういらねぇんだよ!NO LIMITはもう終わりだ!」と内藤のCHAOS追放と同時に決別を宣言、コンビは終息する事となった。 6月18日、大阪府立体育会館で内藤と高橋がシングルで対戦し、高橋が東京ピンプスで内藤から勝利を収めた。
※この「決裂」の解説は、「NO LIMIT (プロレス)」の解説の一部です。
「決裂」を含む「NO LIMIT (プロレス)」の記事については、「NO LIMIT (プロレス)」の概要を参照ください。
決裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 15:39 UTC 版)
11月4日、源義経の軍が布和の関(不破の関)にまで達したことで、義仲は頼朝の軍と雌雄を決する覚悟を固める。一方、頼朝軍入京間近の報に力を得た後白河法皇は、義仲を京都から放逐するため、義仲軍と対抗できる戦力の増強を図るようになる。義仲は義経の手勢が少数であれば入京を認めると妥協案を示すが、法皇は延暦寺や園城寺の協力をとりつけて僧兵や石投の浮浪民などをかき集め、堀や柵をめぐらせ法住寺殿の武装化を計った。さらに義仲陣営の摂津源氏・美濃源氏などを味方に引き入れて、数の上では義仲軍を凌いだ。 院側の武力の中心である源行家は、重大な局面であったにもかかわらず平氏追討のため京を離れていたが、圧倒的優位に立ったと判断した法皇は義仲に対して最後通牒を行う。その内容は「ただちに平氏追討のため西下せよ。院宣に背いて頼朝軍と戦うのであれば、宣旨によらず義仲一身の資格で行え。もし京都に逗留するのなら、謀反と認める」という、義仲に弁解の余地を与えない厳しいものだった。 これに対して義仲は「君に背くつもりは全くない。頼朝軍が入京すれば戦わざるを得ないが、入京しないのであれば西国に下向する」と返答した。九条兼実は「義仲の申状は穏便なものであり、院中の御用心は法に過ぎ、王者の行いではない」と義仲を擁護している。義仲の返答に法皇がどう対応したのかは定かでないが、18日に後鳥羽天皇、守覚法親王、円恵法親王、天台座主・明雲が御所に入っており、義仲への武力攻撃の決意を固めたと思われる。
※この「決裂」の解説は、「源義仲」の解説の一部です。
「決裂」を含む「源義仲」の記事については、「源義仲」の概要を参照ください。
決裂
「 決裂」の例文・使い方・用例・文例
- 決裂のページへのリンク