認識論
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認識論(にんしきろん、英: Epistemology)は、認識、知識や真理の性質・起源・範囲(人が理解できる限界など)について考察する、哲学の一部門である。存在論ないし形而上学と並ぶ哲学の主要な一部門とされ、知識論とも呼ばれる。
注釈
- ^ アウグスティヌスは懐疑論の時代に生きた人物であるが、彼はこれに「わたしは間違えるなら、ゆえにわたしは存在する」と論駁し、後のデカルトに大きな影響を与えた。
- ^ このような考え方は後のマルブランシュに影響を与えた。
- ^ デカルトの実体概念は他に依存せず独立して存在するものというものであるが、ロックはこれを批判し、実体概念を複合観念の一種とする。彼によれば、単純観念の諸属性の基となる何ものかがあると人は想定したくなるが、その何ものかは説明不能である。
- ^ 経験論者にとって、数学の定理は少し厄介な問題を引き起こす。こうした経験論の立場に立つ定理の真偽は人間の経験に依存せず、経験論の立場に対する反証となる。経験論者の典型的な議論は、このような定理はそもそもそれに対応する認識内容を欠いており、単に諸概念の間の関係を扱っているだけだというものだが、合理主義者は、定理にもそれに対応する認識内容の一種があると考える。
- ^ フッサールには『デカルト省察』というフランス人に向けて書いた現象学の入門書があり、彼は、デカルトの主観/客観図式を批判した上であるが、その方法的懐疑論を承継している。また、「事象そのものへ」立ち返るという超越論的方法論は基本的にはカントを承継したものといえる。
出典
- ^ a b c d e f g h i j 神川正彦. “認識論”. 日本大百科全書(ニッポニカ)(コトバンク). 2019年6月10日閲覧。
- ^ 杖下隆英. “実在論”. 日本大百科全書(ニッポニカ)(コトバンク). 2019年6月10日閲覧。
- ^ 坂部恵. “観念論”. 日本大百科全書(ニッポニカ)(コトバンク). 2019年6月10日閲覧。
- ^ 伊藤 (2007), pp.112-128
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- ^ a b c 『岩波哲学・思想事典』「真理」の項目
- ^ 加藤信朗. “真理”. 日本大百科全書(ニッポニカ)(コトバンク). 2019年6月10日閲覧。
- ^ セラーズ (2006)[要ページ番号]
- ^ 戸田山 (2002)、pp.52-56
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- ^ Miles Hewstone; Frank Fincham, Jonathan Foster (June 2005). Psychology. BPS Textbooks in Psychology. Wiley-Blackwell. ISBN 0631206787page19~20,184~186
- ^ Encyclopedia Britannica,15th ed.,1994,vol.18,Epistemology,page487
認識論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 17:01 UTC 版)
ヘレニズム哲学に先駆けてプラトンが『テアイテトス』で知識について論じている(「感覚」、「真なる判断」、「ロゴスを伴った真なる判断」の三種類の知識が俎上に挙げられるがいずれも反駁されることになる)が、これが起爆剤となってそれまでギリシア哲学であまり論じられなかった認識論が発展した。 エピクロスはプラトンが棄却したはずの感覚を復活させて知識と同一視した。感覚ないし表象(パンタシアー)が誤り得る、例えば四角い塔が遠くから見ると円く見えるといった反論に対して、ある感覚が起きていること、例えば塔が円く見えていることは疑いえないと主張した。このように感覚自体は誤りえないものであり、判断を付加した時に初めて誤りが生じると彼らは考えた。 ストア派は『テアイテトス』(191c-e)における蝋板の比喩を活用して認識論を組み立てていった。表象のうち確実に真であるものが「同意(シュンカタテシス)」されて「把握的表象(カタレープティケー・パンタシアー)」となり、把握的表象がさらに「把握(カタレープシス)」され、完全に統合されることで「知識」になるとゼノンは考えたとされる。そして、表象が確実に真であると人間が判別できる根拠として、あらゆる個々の物には「固有性」が備わっているという考えを持ち出した。また、ストア派は、行為や「感情(パトス)」の起源である「意欲(ホルメー)」も表象に対する同意と考えており、認識論が倫理学と一体となっていた。 ピュロン的懐疑主義派では、まず初期のピュロンやティモンはヘラクレイトスの流転説によく似た考えを持っていて、客観的世界の無差別性に基づいて人間の感覚や判断は不確かだと主張したとされる。さらにディオゲネス・ラエルティオスの伝えるところによれば、ピュロンはプロタゴラス的相対主義の影響下にあったという。後にピュロン主義を復興したアイネシデモスも自らの哲学を「ヘラクレイトス哲学に通じる道」だと述べた。 こういったヘラクレイトスの流転説やプロタゴラスの相対主義に反対したはずのアカデメイア学派もピュロンたちと同じく懐疑主義へ行き着いた。ソクラテスの「無知の知」の精神や『テアイテトス』において知識の定義の試みが余すところなく潰えている事実が彼らを懐疑主義に向かわせたと言われる。感覚的経験から知識を獲得しようとするエピクロス派やストア派に対する批判を通じて、プラトン学派は次第に、「真の知識とは感覚されえない物を対象とする」、「知識は浄化された魂によって得られる」といった考えに向かうことになった。ヒッポのアウグスティヌス『アカデメイア派論駁』では、こうした新たな認識論が以前のアカデメイア派の懐疑主義的認識論と対置して紹介されている。
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認識論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 18:40 UTC 版)
詳細は「認識論」を参照 いかなる学問分野においても、科学者のプロジェクトを下支えする哲学的前提が常に一定数存在する。これらの前提の一部は社会的知識や社会的現実の本性、そして人間による行為の統制の所在に関するものである。社会科学が自然科学の方法論をどの程度模倣できるかについて研究者たちの見解は一致していない。初期の社会科学の実証主義者たちは、社会現象は伝統的な科学的方法を通じて研究されうるし、またそうされるべきだと論じた。この立場は科学主義(scientism)、自然主義(naturalism)、また物理主義(physicalism)と近接している。つまり、あらゆる現象は究極的には物理的実体と物理法則に還元されるという教説である。自然主義に反対する陣営には理解(verstehen)的方法主義者を含むが、彼らによれば、人間の行為を研究するためには解釈学的アプローチが必要であり、それは自然科学とは根本的に異なった技術だとされる。社会科学の哲学に与えられた根源的な課題とは、認識論的基盤と照らし合わせた上で実証主義がどの程度「科学的」であると言えるかを特徴づけることなのである。これらの論争はまた、現代の社会科学の「内部」でも激しく沸き起こっており、主観性、客観性、間主観性といった概念や、理論と研究の遂行における実践の位置づけなどが問われている。社会科学の哲学者はさらに深い認識論的・方法論的問題にも取り組んでおり、実在論、批判的実在論、道具主義、機能主義、構造主義、解釈主義、現象学、ポスト構造主義といった概念が扱われている。 19世紀後半以降の実質的に全ての主要な社会科学者は、社会科学が自然科学とは異なる課題と直面していることを認めてきたが、因果関係を特定する能力については科学のメタ理論で行われたのと同じ論争が社会科学にも沸き起こってきた。実証主義はしばしば、素朴な経験主義から生まれたものだという戯画的な捉え方をされるが、実のところこの概念にはコントの著作に始まりウィーン学団やそれ以降にまで広がる射程を持つ豊かな歴史がある。同様に、実証主義が因果性を同定できるとすれば、それはカール・ポパーが提唱した批判的合理主義的非正当化主義(critical rationalist non-justificationism)にも同様に開かれているはずであり、またそれ自体クーンによる認識論的パラダイムシフト概念を通じて議論されるべきである。 ヴィルヘルム・ディルタイのようなドイツの初期解釈学者たちは自然科学と社会科学(Geisteswissenschaft)を区別した先達である。この伝統はマックス・ウェーバーやゲオルグ・ジンメルの反実証主義だけでなく、批判理論(critical theory)にまで強い影響を与えた。1960年代以降、科学の演繹的説明モデルが弱体化していったが、それは「科学主義」あるいは「イデオロギーとしての科学」に対する批判と足並みを揃えて進んでいった傾向だった。ユルゲン・ハーバーマスは『社会科学の論理によせて』(1967年)にて次のように述べている。 「実証主義者が夢見る統合された科学、すなわちすべての科学が一つの自然科学的モデルのもとに吸収されるというテーゼは破綻している。なぜなら、社会科学と歴史学の間には親密な関係があり、これらの学問は具体的な状況に基づいた意味理解の上に成り立っており、それは解釈学的にのみ解明されうるからである。(中略)象徴的に構造化された現実の理解は観察のみでは到達し得ないのである」。 理解社会学理論(Verstehende social theory)は、現象学的な著作にて中心的に扱われており、代表的な文献としてはアルフレッド・シュッツ『社会的世界の意味構成』(1932年)、ハンス・ゲオルク・ガダマー『真理と方法』(1960年)がある。現象学は後に登場するポスト構造主義者たちによる主体中心的な理論においても影響力を持っている。 20世紀半ばの言語論的転回により非常に哲学色の強い社会学が登場し、また知識の社会的獲得に対するいわゆる「ポストモダン」的視点が導入された。社会科学に対する顕著な批判の一つは、ピーター・ウィンチがウィトゲンシュタインの影響下のもとに上梓した『社会科学の理念』(1958年)に見られる。ミシェル・フーコーは『言葉と物』にて有力な批判を提供したが、ハーバーマスとローティは、フーコーの批判は、一つの思考システムを別のシステムで単に置き換えたものに過ぎないと断じている。 社会心理学者が抱える根底的問題の一つとは、自分の行っている研究は、素朴心理学と同様に、社会的行為の背後にある意味や意識の観点から理解しうる、あるいはすべきであるのか、それともより客観的、自然的、物理主義的、行動主義的な事実を集中的に研究すべきであるのか、という問いである。 この問題は、意識、連想的意味、心的表象といった質的・心理的現象を扱う社会科学にとってとりわけ重要性を持っている。なぜなら、意味の研究を拒絶することによりこうした研究が非科学的なものとして分類されることになるからである。精神力学、シンボリック相互作用論といった影響力のある伝統的理論がこうしたパラダイムシフトの最初の犠牲となった。これらの異なる立場の背後に潜む哲学的問題はある特定の方法論に立脚するものだが、それはしばしば党派心の強い者の縄張りを侵してきた。しかし、多くの研究者は一つの方法に拘りすぎる教条主義者に対して忍耐力を持たないことが示されている。 社会科学研究は政治組織やビジネスの現場において非常に一般的かつ実際的効力を持ち続けている。マイケル・ブラウォイは社会学を分類し、実践的応用に焦点をあてる公共社会学(public sociology)と、他の社会科学者や哲学者との対話を重視する学術的社会学(academic or professional sociology)の差異を強調した。
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認識論
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「アルヴィン・ゴールドマン」の記事における「認識論」の解説
ゴールドマンといえば、知識と正当化された信念について一連の自然主義的な説明を提出しているというのが最もよく知られた一面だろう。こうした一連の議論の発端は、論文"知識の因果説"にあらわれている。この論文に従えば、その信念を真にする事実によって適切な形で引き起こされた真なる信念こそが知識である。しかしすぐにゴールドマンは別の説明を提出しなおすことになる。こちらによれば、知識とは信頼できるプロセスによって引き起こされた真なる信念である(信頼性主義)。この新しい説明にも、その後ゴールドマンが提出したさらに新しい説明にも、さまざまな困難が付きまとってはいる。しかしこれらは、知識と正当化された信念について、20世紀後半に提出された中では最も影響力のある説だといえるだろう。というのは、これら二つの説は、「許容」「義務」といった規範的概念ではなく、「因果」、「信頼性」という自然主義的な考え方に訴えることで、認識論に新たなアプローチの仕方を提案したからだ。当時は、規範的な考えが占める領域でこうした自然主義的な考えを用いるというのは、ゴールドマンの著述の著しい特徴をなしていたのだが、こうしたやり方は今日では普通のものになってきている。しかしこうした流れは、少なからずゴールドマン自身の著述に負っているのだ。 より最近では、ゴールドマンの認識論上の仕事は社会認識論の問題に向かっており、認識論に対する自身のアプローチを法律(特に証拠)や投票、メディアなどの問題に応用してきている。ゴールドマンの言い方を借りれば、文化理論やポストモダニズムが「社会認識論」という名の下に示唆してきたものよりも、ラディカルでない社会認識論を提出しようとしているのだ。ゴールドマンのアプローチは分析哲学の道具立て、特に形式認識論を、社会的知識の分析に使おうというもので、こうした仕事のいくつかは著作社会的世界の中の知識にまとめられている。
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認識論
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「ギルバート・ハーマン」の記事における「認識論」の解説
ハーマンが1965年に論じた「最良の説明への推論(inference to the best explanation)」――観察可能な現象を最もよく説明するために必要とされるものの存在を推論すること――の役割についての議論は非常に大きな影響力を持った。後の著作では、すべての推論は合理的な「視点の転換(change in view)」として理解されるべきだとされ、保守主義(conservatism)と整合性(coherence)を釣り合わせつつ、単純性と説明的考察はポジティブな整合性と関連しており、矛盾を避けることはネガティブな整合性と関連する、と主張している。ハーマンはアプリオリな知識に訴える主張に対する懐疑を表明しており、論理学と意思決定理論は含意と一貫性に関する理論なのであって、従うことができるような理論なのではないと論じている。つまり、それらは推論についての理論ではないのである。 著書『Thought』や『Change in View』では、知識についての直観は推論について考える上で有益だと論じられている。最近では、ブレット・シャーマンとともに、知識は未知の諸前提に基づきうると示唆している。また、サンジェーヴ・クルカルニとともに、初等統計学習理論は帰納に関する哲学的問題へのある種の回答を与えていると主張している。
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認識論
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「デイヴィッド・ヒューム」の記事における「認識論」の解説
ヒュームは『人間本性論』では、人はどのように世界を認識しているかという認識論より検討を始めている。 人間の知覚(perception、これはヒューム独自の用法であり、心に現れるもの全てを指す)を、印象(impression)と、そこから作り出される観念(idea)の二種類に分けている。印象と観念には、それぞれ単純(simple)なものと複合(complex)なものとがあり、全ての観念は印象から生まれると主張した。そして印象は観念の源泉となるが、観念から印象は生じないとした。 これらの観念が結合することにより知識が成立され、この結合についてはヒュームは二種類の関係を想定した。一つを「自然的関係」と呼び、もう一つを「哲学的関係」と呼んだ。前者は「類似(similarity)」「時空的近接(contiguity)」「因果関係(causality)」であり、後者は量・質・類似・反対および時空・同一性・因果である。
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認識論
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認識論におけるホーリズムに関しては、ウィラード・ヴァン・オーマン・クワインの論が挙げられる。1951年、クワインは「経験主義の二つのドグマ」という論文において認識論的ホーリズムを提唱した。《指示の不可測性》と《翻訳の不確定性》のテーゼを導いた。これらは、後に、科学哲学の分野で《デュエム-クワイン・テーゼ》として問題提起に役立った。 クワインが述べたことは、検証や反証の対象というのは個々の命題ではなく「科学全体」である、とし、反証事例があっても信念体系全体の再調整を通じてどのような反証事例も却下できてしまう、ということなどである。
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認識論
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ストア派では、知識は理性を使うことで獲得されると信じられた。真理は誤謬とは区別される; 実際には近似が作り出されるだけだとしても。ストア派によれば、感覚器官は常に感覚を受け取っている: そして物体から感覚器官を通じて心へと拍動が伝わり、心において拍動が表象(phantasia)における印象を残す(心に現れる印象はファンタズマと呼ばれる)。 心は印象に対して判断する——賛成もしくは反対する——能力(sunkatathesis)を持ち、実在の正しい表象を間違った表象から区別することができる。印象の中には即座に賛成できるものもあるが、様々な程度の躊躇いがちな賛成に留まり、信念もしくは意見(ドクサ)と呼ばれるものもある。ただ理性を通じてのみ人間は明確な理解・確信(カタレプシス)を得られる。ストア派の知者が獲得できる、確かな、真なる知識(エピステーメー)は確信を仲間の専門知識や人間の判断の集成で確かめることによってのみ得られる。 あるものがその実態において、その裸の状態において、その完全な全体性においてどんな種類のものかを見極めるために、そしてその適切な名前や解決へ向けて混合されたものの名前を分かるために、あなたに表象されたものの定義・記述を自分のためになしなさい。なぜなら、あなたの生涯において表象された物体を真に系統的に観察し、同時にこの世界がどんな世界であるか、世界の中で万物がどのように働くか、全体との関連の中で個々のものがどんな意味を持つかを見極めるために物事を常に観察することほど、心を練磨する上で生産的なことはないのだから。 —マルクス・アウレリウス・アントニヌス,『自省録』、第III巻第11章
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認識論
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「リンダ・トリンカウス・ザグゼブスキ」の記事における「認識論」の解説
ザグゼブスキは、徳認識論という分野の開拓者の一人である。著書『心の諸徳 (Virtues of the Mind)』(1996年)において、彼女は現代認識論の特定の問題を解決するため、アリストテレス的徳理論を展開し、このプロジェクトの過程で徳の一般的分析を行った。また『神的動機理論 (Divine Motivation Theory)』(2004年)では、理性、信仰、倫理学の関係についての問題を幅広く扱った。 彼女は認識的価値の諸問題について取り組んでおり、「エスプレッソマシン」という思考実験(沼地問題 (swamping problem) の前身)を考案して信頼性主義に対する反論を行った。 著書『認識的権威:信念における信頼、権威、自律の理論 (Epistemic Authority: A Theory of Trust, Authority, and Autonomy in Belief)』(2012年)にて、彼女は道徳的・宗教的信念における権威を含む強い意味での認識的権威を擁護し、権威についての信念は知的自律の要件であると主張した。同書は2010年にオックスフォード大学で行われたワイルド講義から生まれた。
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認識論
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カントによれば、人間の認識能力は感性と悟性の二つの源泉からなる。感性は直観する能力であり、悟性は思考する能力であるが、それぞれに純粋な形式(直観の形式は空間と時間、思考の形式は12 の純粋悟性概念(カテゴリー、すなわち範疇とも称する))がある。純粋悟性概念は時間限定たる図式(schema)によってのみ感性と関係する。 我々はこの二つの認識源泉の協働によってのみ対象を認識し得る。したがって我々に「直観」として与えられ得ない理性概念は、我々の認識の対象ではあり得ない。理性推理による理念はいわば絶対者にまで拡張された純粋悟性概念である。神あるいは超越者がその代表例であり、これをカントは物自体(Ding[e] an sich selbst)と呼ぶ。 いわゆる二律背反においては定立の側では完全な系列には無制約者が含まれると主張される。これに対し、反定立の側では制約が時間において与えられた系列には被制約者のみが含まれると主張される。このような対立の解決は統制的ではあっても構成的ではない理念に客観的実在性を付与する超越論的すりかえを避けることを必要とする。理念は与えられた現象の制約系列において無制約者に到達することを求めるが、しかし、到達して停滞することは許さない規則である。 なお、『プロレゴメナ』によれば、純粋悟性概念はいわば現象を経験として読み得るように文字にあらわすことに役立つもので、もしも、物自体に関係させられるべきものならば無意義となる。また、経験に先行しこれを可能にする超越論的(transzendental)という概念はかりに上記の概念の使用が経験を超えるならば超越的(transzendent)と呼ばれ、内在的(immanent)すなわち経験内に限られた使用から区別される。
※この「認識論」の解説は、「イマヌエル・カント」の解説の一部です。
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認識論
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「月は緑のチーズでできている」の記事における「認識論」の解説
科学ジャーナリズムで、理論物理学者のショーン・M・キャロル(英語版)はする必要がなかった理由を「月をサンプルはチーズで作られていないことを知っている。」と説明した。彼は、月は緑のチーズでできているという仮説は不条理と述べ、宇宙に関する私たちの知識に反しており、「これは証明ではなく、月が緑のチーズでできていないという論理や数学のステートメントを証明できるような形而上学的な証拠は無い。しかし、それにもかかわらず、科学は、主張が私たちの理論的理解の残りの部分にどれだけうまく適合しているかに基づいて、主張に関する判断を下す。」と述べた。この議論の余地のない議論にもかかわらず、月の石の調和的な特徴、つまり衝撃波、地震波が伝わる速度は地球上のどの岩よりもチーズに近いと言われている。 Dennis Lindleyはベイズ確率におけるクロムウェルの法則(英語版)の必要性を説明するために神話を使用した。「言い換えれば、意思決定者が何かが真実ではないと考え、これを確率がゼロであると解釈した場合、彼はデータの影響を受けることは無い。 それは確かにばかげている。したがって、月が緑色のチーズでできている可能性は少し残してください。100万分の1程度の小さな確率だが、そうしないと、前述のチーズのサンプルを持って戻ってくる宇宙飛行士の軍隊が去ってしまうため、そこに置いてください。あなたは動かなかった。」
※この「認識論」の解説は、「月は緑のチーズでできている」の解説の一部です。
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認識論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 15:50 UTC 版)
認識論的問題は、知識の性質、範囲、および限界に関するものである。認識論は、知識の研究として記述されてもよい。
※この「認識論」の解説は、「哲学上の未解決問題」の解説の一部です。
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認識論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 07:38 UTC 版)
認識論の領域では、パトナムは「水槽の脳」の思考実験で知られている。この議論はデカルトの「悪しき霊」の仮説の現代版ともいえるもので、われわれが肉体のない「水槽の脳」であり、ある「マッドサイエンティスト」によって身体から切り離されて水槽の中に置かれたのだ、とする主張は自家撞着に陥る、とするものである。ティム・ブラックなどの哲学者はこれを懐疑主義を論駁する議論だと解釈している。 当然ながらこの議論は、指示についての因果的理論になる。言葉というものはつねにその言葉によって指し示される事物の種類を指し示しており、それゆえ、それらの言葉の使用者やかつての使用者が経験した事物の種類を指し示しているとしよう。その場合、ある人が(仮にマリーとしよう)「マッドサイエンティスト」によって造られた配線その他の装置を通じてあらゆる経験を受容している「水槽の中の脳」であるとするなら、「脳」についてのマリーの観念はほんとうの脳を指示しているわけではない。マリーもマリーの属する言語共同体もほんものの脳を見たことがないからである。もっと正確に言えば、マリーが脳に似た何かを見たといっても、それは実際には配線を通じて彼女に与えられたイメージでしかない。同様に、「水槽」についての彼女の観念もほんとうの水槽を指し示しているわけではない。従って、もし一個の水槽の中の脳として、マリーが「私は水槽の中の脳だ」と言うとしても、それは実際には「私は水槽のイメージの中の脳のイメージだ」と言っているにすぎず、おかしなことになる。かといってマリーが水槽の中の脳でないとすれば、彼女は反対のことを言っていることになるから、やはりおかしなことになる。すなわち一種の認識論的外在主義が成り立ち、知識や正当化は、心に外在する要因に依存しており、純粋に内的には決定されないということになる。 パトナム自身の説明によれば、この議論の真の標的は懐疑主義ではなく、形而上学的実在論である。形而上学的実在論は人間が世界を了解する仕方と世界が実際に存在する仕方の間に相違があることを前提にしているので、水槽の脳やデカルトの悪しき霊のような懐疑主義的シナリオはその種の実在論に対する恐るべき挑戦になる。パトナムはそのようなシナリオが不可能であることを示すことによって、人間の世界了解と世界が実際に存在する仕方とのあいだに相違があるという考え方が自家撞着であることを示そうとしているのだ。人間は「神の眼」をもって現実理解をすることはできない。人間は概念スキームによって限界づけられているからである。従って、パトナムによれば形而上学的実在論は誤りなのである。
※この「認識論」の解説は、「ヒラリー・パトナム」の解説の一部です。
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