松本清張 経歴

松本清張

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/09 07:39 UTC 版)

経歴

幼年期

清張は自身の過去についてはあまり話さなかったともいわれ[34]、出生から作家として世に出るまでの記述は主として『半生の記』を基に作成されている[35]

1910年、下関市壇ノ浦に転居。家の裏は渦潮巻く海で、家の半分は石垣からはみ出し、海に打った杭の上に載っていた。両親は、ここで通行人相手の屋を始める。だが3年後に、線路建設のためダイナマイト火の山麓を崩していた際に起こった地滑りのため家が押し潰され、同市田中町に移った。父はあらゆる下層の職業を転々としたが、学問については憧憬を持ち、夜手枕で清張に本を読ませて聞かせた。両親には一人っ子のため溺愛された。清張7歳の時に父は借金取りに追われて姿をくらます。残された母と清張は知人の家に世話になる生活を経験している。11歳まで下関にて育つ。1916年、下関市立菁莪尋常小学校に入学。

小倉への移住

1920年、家族で福岡県小倉市に移ったため、天神島尋常小学校に転校。小倉に定住したのは小学校5年生の時(10歳〜11歳)と推定される[注釈 7]

古船場町の銭湯の持で暮らし、後にバラック家を借り、そこに住んだ。家の前には白い灰汁の流れる小川があり、近くの製紙会社から出る廃液の臭気が漂っていた。1922年、板櫃尋常高等小学校に入学。両親は大八車を転がす露天商を経て翌年、飲食店を開業した。

1922年に小倉で発行された同人誌『とりいれ』に「風と稲」と題する松本清張名義のが掲載されており、これが従来は知られていない少年期の清張作品である可能性が指摘されている[37]

文学への関心と挫折

小倉・川北電気会社の給仕時代(1925年)

生家が貧しかったために、1924年、板櫃尋常高等小学校を卒業したのち、職業紹介所を通じ、株式会社川北電気企業社(現在のパナソニック エコシステムズ株式会社の源流)小倉出張所の給仕に就職した。掃除、お茶くみ、社員の使い走り、商品の配達などに携わり、初任給は11円、3年後に昇給して15円であった。この時期、新刊書を買う余裕はなく、本は貸本屋で借りるか、勤め帰りに書店で立ち読みしていた。当初清張が興味を持って読んだのは、の本であった。特に田山花袋紀行文を好み、当初清張は花袋を紀行作家と思っていたほどであった(エッセイ『雑草の実』による)。しばらくして、家業の飲食店の経営がやや楽になり、家が手狭になったので、祖母とともに近所の雑貨屋の二階に間借住まいをする。

やがて文学に夢を託すようになる。この頃から春陽堂文庫や新潮社の文芸書を読み、15~16歳の頃、特に愛読したのは芥川龍之介であった。他に菊池寛の『啓吉物語』や岸田國士戯曲も愛読した。休日には小倉市立記念図書館に通い始め、ここで森鷗外夏目漱石、田山花袋、泉鏡花などの作品を読み、新潮社版の世界文学全集を手当たり次第に読み漁った。しかし、当時世評の高かった志賀直哉暗夜行路』などは、どこがいいのかさっぱりわからなかったという。また、雑誌『新青年』で翻訳探偵小説の面白さに開眼、国内では江戸川乱歩の出現に瞠目、作品を愛読した。

だが1927年、出張所が閉鎖され失職。子供の頃から新聞記者に憧れていた清張は、地元紙『鎮西報』の社長を訪ねて採用を申し入れたが、大学卒でなければ雇えないと拒否された。この頃、一時は繁盛した父の飲食店も経営が悪化し、失職中の清張も露店を手伝い、小倉の兵営のそばでパンなどを売っていた。文学熱はさらに高まり、八幡製鉄所東洋陶器に勤める職工たちと文学を通じて交際し、文学サークルで短篇の習作を朗読するなどした。また、木村毅の『小説研究十六講』を読んで感銘を受けた。

1928年から務めた高崎印刷所(1930年代)

1928年になっても、働き口は見つからなかった。手に職をつける仕事をしたいと考えた清張は[20]、小倉市の高崎印刷所に石版印刷の見習い工となる。月給は10円であった。しかし、本当の画工になれないと思った清張は、さらに別の印刷所に見習いとして入る。ここで基礎から版下の描き方を学び、同時に広告図案の面白さを知った。この頃、飲食店の経営はさらに悪化、一家は紺屋町の店を債権者に明け渡して、工場廃液の悪臭が漂う中島町に再び戻り、小さな食堂を開いた。しかし全く商売にならず、父は相変わらず借金取りに追われていた。印刷所の主人が麻雀に凝って仕事をしなくなったため、清張は毎晩遅くまで版下書きの仕事に追われた。

1929年3月、仲間がプロレタリア文芸雑誌を購読していたため、「アカの容疑」で小倉刑務所に約2週間留置された。釈放時には、父によって蔵書が燃やされ、読書を禁じられた。

印刷工から広告図案へ

小倉・高崎印刷所時代の清張(1936年)

1931年に印刷所が潰れ、約2年ぶりに高崎印刷所に戻ったが、博多の嶋井オフセット印刷所(正確には嶋井精華堂印刷所。博多三傑の一人、島井宗室の末裔が経営、現在の島井印刷株式会社)で半年間見習いとなった。ポスターの図案を習うつもりだったものの、文字もデザインの一つだからという理由で、もっぱら文字を書かされていた。書を清張に教えたのは、能書家で俳誌『万燈』の主宰者でもあった江口竹亭であった。後の作品中に覗われる俳句趣味・能書家の下地がここで培われた[38]

その後、高崎印刷所に三度復帰、ようやく一人前の職人として認められた。その頃から広告図案が重視されるようになり、嶋井精華堂で学んだ技術が役立った。1936年11月、佐賀県人の内田ナヲと見合い結婚。ナヲが裁縫を習いに通っていた近所の寺の住職の紹介であった[39]

高崎印刷所の主人が死去し経営状態が悪化、勤めを続けながら自宅で版下書きのアルバイトをした。将来に不安を感じ、1937年2月に印刷所を退職、自営の版下職人となった。この頃、朝日新聞西部支社(現・西部本社)門司から小倉に社屋を移転し、最新設備による印刷を開始する旨の社告が載った。版下の需要が増えると見込んだ清張は、支社長の原田棟一郎に版下画工として使ってほしいと手紙を書き、下請け契約を得ることに成功した。1939年に広告部の嘱託、1940年には常勤の嘱託となった。なお1938年に長女、1940年に長男、1942年に次男が誕生している。

第二次世界大戦中

久留米での教育召集時の清張(1943年)

大東亜戦争下の1943年には広告部意匠係に所属する正社員となったが、独創性を必要とされない仕事内容で、また学歴差別が根強く、実力を評価されない職場環境であり、『半生の記』ではこの時期を「概して退屈」「空虚」と記している。そのような中、清張の楽しみの一つは、図案家仲間との交流であった。仲間と共に年に一回、ポスターの展示会を開き、東京から有名なデザイナーを呼んで審査してもらっていた。もう一つの楽しみは、北九州の遺跡めぐりであった。当時清張の職場の隣席に浅野という校正係がおり、浅野は収集した石器土器の破片を取り出して清張に見せ、考古学者・森本六爾の話をして聞かせたという。浅野の影響から、休日には各地の遺跡を訪ね歩いた。

やがて教育召集のため、久留米陸軍第56師団歩兵第148連隊に入隊、陸軍衛生二等兵として3ヶ月の軍務に服した。その後、1944年6月、臨時召集の令状が届いた。この時は、同じ久留米で第56師団から新編された第86師団歩兵第187連隊に入隊、直ちに歩兵第78連隊補充隊への転属を命じられるが、これはニューギニアへ補充のために送られる部隊であった。

補充隊は日本統治時代の朝鮮に渡り、7月4日に竜山に到着、同地に駐屯となった。その後、戦況の変化から同部隊のニューギニア行きは中止となったため、清張は中隊付きの衛生兵として医務室勤務となり、軍医の傍らでカルテを書いたり、薬品係に渡す薬剤の名前を書き入れたりする作業に従事した。12月に陸軍衛生一等兵となる。1945年3月、歩兵第292連隊第6中隊に編入され、4月には歩兵第429連隊に転属した。所属は変わっても衛生兵としての任務は変わらなかった。5月、第150師団軍医部勤務となり、全羅北道井邑に移り、6月に衛生上等兵に進級、終戦を同地で迎えた。

終戦直後

10月末、家族が疎開していた佐賀県神埼町の農家へ帰還、朝日新聞社に復職した。小倉市内の黒原営団(現・黒住町)の元兵器厰の工員住宅[注釈 8]に住み、砂津に在った朝日新聞西部本社まで歩いて通勤していた。20前後の敷地に一家8人で生活した[41]。しかし当時の新聞はタブロイド版1枚、広告は活字の案内広告だけで、清張の仕事は事実上なかった。会社の給料だけでは生活困難であったため、会社の休日や食糧買い出し制度を利用し、仲買のアルバイトを始めた。佐賀地域の農家が副業で作る藁箒を仕入れ、小倉近辺の荒物屋に卸した。当初清張の活動範囲は北九州だけであったが、そのうち広島まで足を延ばし、やがて見本を持って関西方面にまで遠出、空いた時間を使って京都市奈良県奈良市飛鳥地方の古い寺社を見学した。

1948年頃になると、卸売を担う正規の問屋が復活し、このアルバイトが成り立たなくなったため、今度は印刷屋の版下描きや商店街のショーウィンドウの飾り付けなどのアルバイトに従事。また生活費を稼ぐ目的もあって、観光ポスターコンクールなどに応募していた。

1950年代

処女作

木村毅の『小説研究十六講』を座右の書としていたが、元々は作家志望ではなかった。生活のためにアルバイトなどをしていたところ、『週刊朝日』の懸賞小説の応募を見つけ、賞金目当てに暇を見つけてはシャープペンで小説を書き続けた[42]。1951年に書いた処女作『西郷札』が『週刊朝日』の「百万人の小説」の三等に入選[注釈 9]。この作品は第25回直木賞候補となった。この年初めて上京。全国観光ポスター公募でも『天草へ』が推選賞を取った。

芥川賞受賞

1952年、木々高太郎の勧めで『三田文学』に「記憶」「或る『小倉日記』伝」を発表。同年、日本宣伝美術協会九州地区委員となり、自宅を小倉事務所とした。

1953年に「或る『小倉日記』伝」は直木賞候補となったが、のちに芥川賞選考委員会に回され、選考委員の一人であった坂口安吾から激賞され[注釈 10]、第28回芥川賞を受賞。

同年、『オール讀物』に投稿した「啾啾吟」が第1回オール新人杯佳作を得た。

上京

1953年12月1日付で朝日新聞東京本社に転勤となり[注釈 11]、上京する。当初単身赴任となった清張は、まず杉並区荻窪の田中家[注釈 12]に寄宿した。

翌1954年の7月に一家が上京。当初は練馬区関町[注釈 13]の借家に住んでいたが、3年後の1957年に上石神井[注釈 14]に転居した[44]

朝日新聞社勤務時代には歴史書を雑読し、広告部校閲係の先輩から民俗学の雑誌を借りて読んでいた。また樋口清之考古学入門書を愛読していた[45]

西部本社勤務時に引き続いて意匠係の主任となったが、1956年5月31日付で朝日新聞社を退社。退社の直接の契機は井上靖からの助言であった[46]

本格的な作家活動

以後、作家活動に専念することになる。1956年9月に日本文芸家協会会員。

1955年から『張込み』で推理小説を書き始め、1957年に短編集『』が第10回日本探偵作家クラブ賞(現・日本推理作家協会賞)を受賞。同年から雑誌『』に『点と線』を連載する。翌年刊行され、『眼の壁』とともにベストセラーとなった。「清張以前」「清張以後」という言葉も出て、「清張ブーム」が起こった[2]。『放送朝日』1957年8月号特集「テレビジョン・エイジの開幕に当たってテレビに望む」に寄せた評論で、テレビ番組に対する大宅壮一の発言「一億白痴化運動」に“総”の一字を挿入、「かくて将来、日本人一億が総白痴となりかねない」(一億総白痴化)と述べ、これは流行語となった。

その後も執筆量は衰えず、『ゼロの焦点』『かげろう絵図』『黒い画集』『歪んだ複写』などを上梓。執筆量の限界に挑んだ。清張の多作は同時代の作家にとっても驚きであり、種々の憶測も呼んだ。作家の平林たい子は韓国の雑誌『思想界』1962年8月号に「朝から晩まで書いているんですけど、何人かの秘書を使って資料を集めてこさせて、その資料で書くだけですからね。松本と言えば人間ではなく『タイプライター』です」と発言した。これに対し清張は「事務処理をする手伝いの人が一人いるのみで、事実に反する」と反論している[47]。しかしのち、書痙となり、以後は口述筆記をさせ、それに加筆するという形になった。

『小説帝銀事件』

1959年、帝銀事件を題材にして『小説帝銀事件』を発表。当時、帝銀事件は既に最高裁判所で被告に死刑判決が下されて、裁判は終わっていた。それを踏まえて改めて事件を「推理」することは、裁判批判を意味した。ただし当時は裁判批判が高まった時期であり、清張が特殊であったわけではない。松川事件に対しては、作家の広津和郎が裁判批判を書き、宇野浩二は「世にも不思議な物語」(『文藝春秋』1953年10月号掲載)を執筆しており、清張も広津を支援するなどの活動を続けた。『小説帝銀事件』は1959年、第16回文藝春秋読者賞に選ばれた。なお帝銀事件の被告平沢貞通は死刑執行されないまま1987年まで長きにわたり収監されて獄死し、事件に対しては冤罪説が根強くある。

下山事件に関しては、清張は広津や南原繁東京帝国大学総長とともに「下山事件研究会」を結成、「推理は推理、真実の追及は別になければならない」として真相究明を訴え続けた。

1960年代

下山事件での調査の頃(1960年7月)

『日本の黒い霧』

1960年、ノンフィクション日本の黒い霧』の連載が始まる。『日本の黒い霧』は『文藝春秋』の1960年1月号から連載され、第二次世界大戦終結以後、1945年から1952年までの7年間に日本で起こった10の諸事件(下山事件のほか、もく星号墜落事故白鳥事件ラストヴォロフ事件ゾルゲ事件鹿地事件松川事件など)に対する清張の推論とその背景が論じられた。同書は連載中から大きな反響を呼び、「黒い霧」は流行語になった。当時はまだノンフィクションが一般的に読まれる時代ではなく、同ジャンル隆盛のもととなった作品の一つとされている[注釈 15]。 また、『日本の黒い霧』は連載中からさまざまに議論を引き起こし、大岡昇平と論争を行った(後述)。

このあと清張は、実際の歴史を題材にするにあたって、

  • 小説の形式をとったもの(『小説東京帝国大学』など)
  • 評論として書いたもの(『北一輝論』など)
  • 小説ではあるが作中に論文を組み込んでいるもの、

等々、様々なスタイルでの記述を試みていく。清張によると「最初、これ(『日本の黒い霧』)を発表するとき、私は自分が小説家であるという立場を考え、「小説」として書くつもりであった」[49]

1961年、前年度の高額納税者番付で作家部門の1位に[50]。以降13回1位。杉並区高井戸[注釈 16]に転居。直木賞選考委員を務める。『わるいやつら』、『砂の器』、『けものみち』、『天保図録』を発表。

純文学論争

1961年9月の『朝日新聞』において、平野謙が「松本清張、水上勉らの社会派推理小説などの中間小説の優れたものが台頭し、純文学という概念は歴史的なものに過ぎない」と述べたことから、伊藤整高見順などと純文学論争が起こった。福田恆存によれば、同年1月に大岡昇平が井上靖の『蒼き狼』を批判した時から始まっていたもので、大岡はついで、清張、水上らの中間小説を批評家が褒めすぎるとして批判していた[52]

1963年、江戸川乱歩の後を受けて日本推理作家協会理事長を務める[53]。1971年には同会長となる( - 1974年)[54][注釈 17]

1963年11月から1964年1月にかけて古代史の知識を色濃く反映した『陸行水行』を発表。以降、小説に留まることなく、自身の見解をより深く世に問う著作を発表していく。清張は「この小説(『陸行水行』)は、論文として書かれたものでもなければ、私の邪馬台国論を小説化したものでもない。(中略)本にまとまるとかなりの反響があった。そこでこういうものが私の邪馬台国論と思われては困ると思い、その後二年して「中央公論」に『古代史疑』を執筆した」と発言している[56]

1964年に初の海外旅行へ出かけ、ヨーロッパ中東諸国を歴訪した。

『昭和史発掘』

1964年から『週刊文春』に『昭和史発掘』(- 1971年)を連載、二・二六事件に至る昭和初期の諸事件を、関係者への取材や史料に基づいて描いた。連載中には、右翼の大物からの抗議もあった。呼びつけられたが、根拠を示して説明すると解放してくれたという[57]。単行本の発行部数は300万部を突破し、清張自身も驚く売れ行きを示した[58]

二・二六事件に関しては、のちに清張が文藝春秋の出版局長に「資料集はたとえ商売にならなくても、大切なものは世に還元すべき」として資料集も出版された[59][60]

「ネオ・本格」

他方、安易な清張ブーム追随も多く、1960年代半ばには、トリックも意外性もない社会批判小説・風俗小説が「本格推理」と銘打たれ乱発される状況となった。推理小説の形骸化に対し、清張は責任監修を務めた叢書『新本格推理小説全集』(読売新聞社、1966 - 67年)の中で、「ネオ・本格」という標語を掲げ、次のように発言している。

この時期に推理小説はその本来のあるべき性格を失いつつあった。その理由の一つは題材主義に倚りかかりすぎたためであり、一つはジャーナリズムが多作品を要求したため不適格な作品が推理小説の名において横行したことであり、もう一つは、その結果、推理作家自体の衰弱を来したことである。これは反省すべきことであった」「今や推理小説は本来の性格に還らなければならない。社会派、風俗派はその得た場所に独立すべきである。本格は本格に還れ、である。

—  叢書『新本格推理小説全集』序文

1967年、『昭和史発掘』『花氷』『逃亡』で第1回吉川英治文学賞、『砂漠の塩』で第5回婦人公論読者賞。同年より江戸川乱歩賞選考委員を務める( - 1975年)。

1968年に邪馬台国を探究した『古代史疑』を刊行して以降、古墳時代を論じる『遊古疑考』、日本神話をめぐる『古代探求』など、古代史に関する評論・随筆も多数執筆されていく。他方、造詣は小説作品にも生かされ、『Dの複合』、『巨人の磯』、『火の路』などの作品に結晶している。

ベトナム戦争とベトナム訪問

ベトナム戦争に際して、一方の当事国であるアメリカ合衆国の新聞ワシントン・ポスト紙に掲載するベトナム反戦広告募集の呼びかけ人の一人となり、1967年4月3日に掲載された。また、「ベ平連」の中心人物の一人であった鶴見俊輔が清張に資金の不足を訴えた際、清張は「鶴見が驚くほどの額」を寄付した[61]

1968年、アメリカや南ベトナムと戦っていたベトナム民主共和国の対外文化連絡委員会からの招待を受け、2月に北ベトナム各地およびカンボジアラオスなどの視察旅行に出発[注釈 18]。4月4日、ファム・ヴァン・ドン首相との単独会見に成功した[注釈 19]。また帰国後の4月には来日したエドガー・スノーと対談した[63]

1969年、カッパ・ノベルス版の発行部数が一千万部を突破した。

1970年代

1970年、『昭和史発掘』などの創作活動で第18回菊池寛賞を受賞。「自分は作家としてのスタートが遅かったので、残された時間の全てを作家活動に注ぎたい」と語り、広汎なテーマについて質の高い作品を多作した。同年、『日本の黒い霧』、『深層海流』、『現代官僚論』で日本ジャーナリスト会議賞を受賞。1971年には『留守宅の事件』で第3回小説現代ゴールデン読者賞(昭和46年上半期)を受賞した。

歴史への関心

1970年代以降には、伝奇小説の大作『西海道談綺』や、奈良時代に材をとった歴史小説『眩人』が書かれた。また邪馬台国ブームが、1970年前後に大きく盛り上がったことを背景に、古代史をめぐる対談・座談会等が、清張を交えてたびたび実施された。清張は、井上光貞西嶋定生[注釈 20]上田正昭といった、歴史学界の第一人者とも交流した[注釈 21]。清張の活動は当時の古代史ブームの先導の一つとなった。その関心は日本に留まらず、アジアや中東、ヨーロッパなど広い範囲に及び[64]、のちにベトナム古代文化視察団(団員は騎馬民族征服王朝説で知られる江上波夫など)の団長を務めた。『古代史疑』以降、古代史に関する発言は晩年まで続いた。邪馬台国の所在地は21世紀の現在まで確定しておらず、清張は所在地論争では九州説の立場をとっている。

1974年に高木彬光が推理小説『邪馬台国の秘密』を発表した際、古代史に関する記述をめぐり清張との間で論争が行われた[注釈 22]

創共協定

創価学会会長・池田大作日本共産党委員長・宮本顕治の会談が1974年12月に清張邸で実施され、10年間互いの存在を認め相互に干渉しないことを約束する創共協定(共創協定)が結ばれていたことが、1975年7月に判明、清張はその仲介役を務めていた(協定は公表とほぼ同時に死文化)[注釈 23]

池田と清張の初対面は、『文藝春秋』1968年2月号での対談[65]であり、両者はその後も親交を続けた[66]。文藝春秋の清張担当者であった藤井康栄によれば、清張の大ファンと言う池田とも、自宅が当時清張宅のすぐ近くにあった宮本とも、ごく気軽に話せる関係であり、創共協定は偶然の重なりによるものであるという[61]

1976年、毎日新聞社の全国読書世論調査で「好きな著者」の1位に。以降、没年まで8回1位となった。

東京新聞』にて1976年1月1日から1978年7月6日まで邪馬台国期から奈良時代に至る日本古代史の通史『清張通史』を連載。1977年の「邪馬台国シンポジウム」(博多全日空ホテル)では構成・司会者を務めた。江波波夫や井上光貞が講師として参加、全国から600人以上の聴講者が集まった。

エラリー・クイーンの来日招聘

アメリカの世界的な推理作家であるエラリー・クイーンを1977年に光文社などと共同で招待し[注釈 24]、クイーン(フレデリック・ダネイ)と対談した[68]。クィーン(ダネイ)との対談中、推理小説の基本的な考え方について互いに同意する一方、意見を対立させる場面もあった。クィーンは推理小説の世界ベスト10として、イギリスの推理作家トマス・バークによる「オッターモール氏の手」を挙げたが、清張は「意外性のみを狙ったもので動機皆無、普遍性がない」と主張し、論争になった[69]

なお、アメリカ版『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』において、初めて掲載された日本人推理作家の作品は、清張の『地方紙を買う女』である。クイーンと清張との縁はその後も続いた。クイーンは1967年に起こったジム・トンプソンの失踪事件に関心を持っており、既に『熱い絹』の執筆に着手していた清張と関心を共有することになった[70]。清張やクイーンの作品を取り上げたテレビドラマ「傑作推理劇場」では、冒頭でクイーンが前説を述べる趣向が取られた。のちに清張はフランス世界推理作家会議で「あなたの作風はクイーンに似ていると思うが?」と質問された際、明確に否定している[71]

「霧プロダクション」設立

映画監督野村芳太郎らと1978年11月に「霧プロダクション」を設立、代表取締役に就任した。映画・テレビドラマの企画制作に関与し、同プロダクションは1984年まで続いた[72]。同プロダクションの設立に清張が熱意を示したのは、『黒地の絵』の映画化を強く望んでいたからとされており、発足前の仮称は「黒地の絵プロダクション」とも報じられていた[73]

1978年にNHKの取材に同行して2度目のイラン訪問、翌年『ペルセポリスから飛鳥へ』(日本放送出版協会)を書き下ろし刊行した。取材中には、大地震とパフラヴィー朝の国王退陣を求める反政府暴動に遭遇し、この暴動はイラン革命となり王朝は倒れた。同年、第29回NHK放送文化賞を受賞した。

1980年代

1981年の「正倉院展」(東京国立博物館)に際して、東京と京都で開かれたシンポジウムに参加した[74]。この1981年頃には、鑑真をテーマにした歴史小説を『群像』(講談社)に連載する構想を持っていた[75]

1982年3月30日、「労組潰し」とも評された国鉄問題について「国鉄の自主再建を願う7人委員会」が発足し、会員として参加した。メンバーは中野好夫都留重人大河内一男木下順二沼田稲次郎(前東京都立大学学長)、矢島せい子(国民の足を守る会中央会議)。発足にあたっては、私学会館(アルカディア市ヶ谷)で協議した。清張はこの会について「硬直し、泥沼化していく労使の現状を見ておれない。声なき声を代表して、双方が真剣な気持ちで問題解決に取り組んでくれるようになれば」と述べている。この問題はその後、国鉄分割民営化で決着した。

1983年には19作品、24回の新作ドラマが放送されるなど、視聴率を確保できるとされた清張作品のドラマ化は過熱気味となっていたが、原作のテーマから逸脱した不本意な映像化を防ぐ目的もあり、霧プロダクション解散後の1985年に「霧企画事務所」が設立され、清張は監査役を務めた(2000年に解散)。

インド・中国訪問

1983年、朝日放送の取材に同行しインドを訪問。デリーマドラスコルカタなどを歩いた。帰国後に『密教の水源をみる 空海・中国・インド』(講談社)を書き下ろし刊行した。

同年には中国も訪問し、首都北京で周揚・中国文学芸術界連合会主席、馮牧・中国作家協会副主席と会談した。清張は「文学は面白いことが第一。説教調のものでは読者に倦きられる」と主張したが、中国側は「文学作品としての水準が先決」とした。

1984年、『ニュードキュメンタリードラマ昭和 松本清張事件にせまる』(テレビ朝日朝日放送)を監修。毎週コメンテーターとして自ら出演した。

1985年にスコットランドフランスカルナック列石を、『清張古代史をゆく』続編の取材のため調査、ヨーロッパ巨石文化の謎に取り組んだ。この時の取材記録は『松本清張のケルト紀行』(日本放送出版協会・共著)として刊行された。

1986年から発掘調査が続く吉野ヶ里遺跡に関してもシンポジウムや講演会に参加。清張の議論は『吉野ケ里と邪馬台国―清張 古代游記』(日本放送出版協会)に収録されている。

1986年に『点と線』の英訳(ペーパーバック版)が発売された際、『ニューヨーク・タイムズ』紙上で、「伝統的なものではあるが、息もつかせぬ探偵小説」として紹介された。

フランス世界推理作家会議

1987年、フランス東部グルノーブルでの第9回「世界推理作家会議」に招待され、日本の推理作家[注釈 25]として初めて出席し、講演を行った(「グルノーブルの吹奏」「国際推理作家会議で考えたこと」)。「グルノーブルの吹奏」(1988年)中の講演記録によると、清張は、日本の推理小説作家の作品は翻訳数が少ないために知られていないが、海外の作品に比べて遜色がないと紹介し、日本の作家のトリックには欧米よりも優れているものが多くある、とも述べている。帰国後には、日本の推理小説の真価を海外に知らせるため、外国語翻訳がもっと行われるべきであると主張した[71]

また、フランスの推理作家・評論家のフランソワ・リヴィエールとの対談において、推理小説には骨格としてアイデア・トリックの独自性が必要であるが、他方、単調さを回避するために副主題を伴うべきで、既成事実への疑問追及や既成観念への挑戦がテーマとしてうってつけである、と「ネオ・本格推理小説」を提唱した[71]

晩年

1990年、「社会派推理小説の創始、現代史発掘など多年にわたる幅広い作家活動」で1989年度朝日賞を受賞した。

時代・歴史小説の執筆は減少傾向を示したが、最晩年には再び時代小説『江戸綺談 甲州霊嶽党』に取り組んでいた。上田正昭によれば、織田信長の比叡山焼き討ちを、延暦寺側から描く作品の構想も持ち、1992年春から取材を開始していた[76]

他にもグルノーブルの原子力発電所に絡んだ推理長編を構想しており、1992年の年明けに中央公論社の会長・社長を招いて執筆を約束、初夏にヨーロッパを取材する予定であった。グルノーブルに加えて、フランスのパリリヨンモンテカルロのほかオーストリアウィーンベルギーブリュッセルなどを舞台とする構想だったという[77]

死去

富士見台霊園の墓

1992年4月20日、脳出血のため東京女子医科大学病院に入院、手術は成功したが、7月に病状が悪化、肝臓癌であることが判明し、8月4日に死去した(82歳没)[1]

遺書には「自分は努力だけはしてきた」などと記されていた[78]。 遺書の日付は1989年6月10日夜、ヨーロッパ取材旅行の前日となっていた。『神々の乱心』『江戸綺談 甲州霊嶽党』(後者は未単行本化)が絶筆。

法名は清閑院釋文張。

没後の動き

  • 1994年 - 清張の業績を記念して日本文学振興会松本清張賞制定。
  • 1998年 - 北九州市立松本清張記念館が開館(書斎や書庫を再現)。同館を事務局として松本清張研究会が発足[79]
  • 2004年 - テレビ朝日が『黒革の手帖』で、清張作品の映像化を定番化。以後随時、単発大型ドラマを編成。
  • 2009年 - 北九州市が生誕100年記念事業を実施。1月から12月まで幼少時の滞在地を含む清張ゆかりの全国各地で展開された。
  • 2010年5月 - 北九州市が市道大門木町線に「清張通り」の通称を命名した[80]
  • 2013年8月 - 復員直後の昭和20年から8年間住んでいた北九州市小倉北区黒住町の旧居が解体される。
  • 2014年12月 - 鳥取県日南町の日野上地域振興センターに、松本清張資料室がオープン[81]
  • 2016年4月6日 - 清張の旧居近くにあった小倉北区黒住町にある黒住公園が記憶継承のため「くろずみ清張公園」に名称変更された[82]
    • 2020年4月6日 - 公園の名称の由来を残すための碑が建てられた[83]
  • 2018年9月16日までに、北九州市立中央図書館の書棚から、『松本清張全集』66冊のうち62冊が無くなったことが判明した[84]。同年11月末に、この被害を知った全国6件ほどからの寄贈の申し出のうち、保存状態の良かった福岡県宗像市の80代男性からの全集を受け取って、書棚に戻した[85]
  • 2019年3月16日~5月12日 - 神奈川県立近代文学館で特別展「巨星・松本清張」が開催された[86]







松本清張と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「松本清張」の関連用語

松本清張のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



松本清張のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの松本清張 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS