松本清張 作品

松本清張

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/09 14:06 UTC 版)

作品

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短編小説

芥川龍之介菊池寛の短編小説に若い頃から関心を寄せていた清張は、特に短編小説を好んで執筆した[注釈 26]。 特に初期はほとんどが短編作品であり、文学的な意味での完成度において、短編作品を高く評価する論者も少なくない[注釈 27]

これらの作品ではとりわけ、「何らかの意味で劣等感を抱いたり、社会的に孤立したりしながら、心の底では世の中を見返してやりたいという熱烈な現世欲を抱き、そのためにかえって破滅するような孤独で偏執的な人間像」[注釈 28]が好んで取り上げられている。

その後、大きな反響を呼んだ『黒い画集』をはじめ、連作形式での短編発表が続き、清張の創作活動の大きな柱の一つとなった。長編執筆が主体となり、短編の創作量は減少したが、晩年に入っても短編シリーズ『松本清張短篇小説館』『草の径』を発表するなど、最後まで短編創作の試みは続けられた。歴史上の人物に新たな焦点を当てるなど、様々な角度からの創作が行われている。

推理小説

推理小説に清張がよく親しむようになったのは、川北電気小倉出張所の給仕時代、17~18歳の頃であった。雑誌『新青年』(1920年創刊)に掲載された翻訳小説により探偵小説の面白さを知った、と回想している[92]小酒井不木らによる翻訳を「むさぼり読んだ」一方、江戸川乱歩の初期作品に傾倒した。他に、牧逸馬が手がけたノンフィクション『世界怪奇実話』に憧れ、犯罪ドキュメントものに興味を持つようになったのは、その影響であると述べている。後に作家となって以降も、牧の自宅を訪れ、蔵書を一覧し、原資料について質問している。『日光中宮祠事件』『アムステルダム運河殺人事件』のような作品を書くようになったのは牧の影響であると述べている[93]。 戦後の作品としては、香山滋『怪異馬霊教』の強烈な個性に関心を持ったという[94]

1961年に出版された随筆『黒い手帖』では、トリックの尊重や、また本格推理の面白さは肯定するが、限られた数のマニアのみを念頭に、設定や描写の奇抜さを競い合う状況が推理小説の行き詰まりを引き起こしているとして、多くの人々の現実に即したスリル・サスペンスを導入すべきことを訴えた。しかし推理小説に現実性を持たせる主張自体は、清張の独創ではない。古典的な探偵小説の非現実性に対する批判として有名なものに、アメリカの作家レイモンド・チャンドラーの1944年のエッセイ「The Simple Art of Murder(素朴な殺人芸術[注釈 29])」がある。ただし、清張は「推理小説が謎解きの面白さを骨子としている以上、トリックを尊重するのは当然である」とする立場を捨てず、動機の重視などチャンドラーとは異なる方法へと進んだ。

ほか動機の描写に力を入れることで人間描写を深めた。なお推理小説で人間を描くことについては、清張以前から議論が続けられてきた古典的な問題である。有名なものは、清張が作家として世に出る際大きな役割を果たした木々高太郎甲賀三郎による昭和11年 - 12年の「甲賀・木々論戦」である[95]。また、木々を中心とした新人推理作家グループによる「探偵作家抜打座談会」(『新青年』1950年4月号掲載)も行われたが、乱歩によれば「探偵小説本格主義打倒の純文学論を高唱したもの」であったという[96]。推理小説に社会性を加えられることなどを主張している。

トリック分類表

1962年初め頃、清張は欧米の推理小説に詳しいアシスタント(清張の速記者を務めた福岡隆の親戚)を使い、トリック分類表を作成させた。分類表は江戸川乱歩類別トリック集成[97]の形式に倣ったものであり、6つの大カテゴリと各カテゴリ内での分類によって構成され、コナン・ドイルアガサ・クリスティから乱歩に至る実作例が付されている。大カテゴリは以下の通り[98]

  1. 「犯人(または被害者)の人間に関するトリック」(一人二役など)
  2. 「他人が出入りした痕跡についてのトリック」(密室など)
  3. 「犯行の時間に関するトリック」(乗り物、時計、音など)
  4. 「凶器と毒物に関するトリック」
  5. 「人および物の隠し方トリック」(死体の隠し方など)
  6. 「その他の各種トリック」(童謡殺人迷路など)。

日本推理作家協会の理事長時代、中島河太郎山村正夫に委嘱して、国内中心の150例近くを補充したトリック分類表を作成させた[99]

社会派推理小説

同時期の水上勉有馬頼義らの執筆活動もあり、マスメディアは清張たちによる推理小説の新しい傾向を「社会派推理小説」と呼び[注釈 30]、週刊誌など当時のマスメディアの発達もあり広く歓迎された[注釈 31]。しかし清張は「社会派」の呼称が推理小説に使われることを好まなかった[101]。晩年にも、社会派の呼称は適当ではないと明言している[102]

横溝正史のリバイバルブームについて

1970年代の横溝正史のリバイバルブームに際しては、近年の推理小説に良い作品が少ないことの反映だとして次のように述べた。「いい作品が少ないですね、社会派ということで、風俗小説か推理小説かわからないようなものが多い。推理小説的な意味で言えば水増しだよ。それで、トリックオンリーの探偵小説、たとえば横溝さんのものなど、どんでん返しもあれば意外性もあって、コクがあるでしょう、それで読者に迎えられているんだよ」[103]

時代・歴史小説

デビュー当初の清張の執筆は歴史小説が中心であり、『くるま宿』『秀頼走路』『五十四万石の嘘』『いびき』など、多くの作品が執筆された。これらの歴史短編では、歴史の片隅でひっそりと消えていく薄幸の人々が好んで取り上げられ[104]、また前述の留置所での拘留経験が反映された『いびき』など、かつての自身の生活経験が色濃く影を落としている作品も見られる。また、清張にとって初の長編小説は歴史小説であった。作家としての知名度が上がり執筆量が激増して以降も、連作時代小説『無宿人別帳』を連載するなど、しばらくは時代・歴史小説が並行して書かれた。

歴史小説に関して「鷗外流に史実を克明に淡々と漢語交じりに書くのが「風格のある」歴史小説ではない。史実の下層に埋没している人間を発掘することが、歴史小説家の仕事であろう。史実は結局は当時の人間心理の交渉が遺した形にすぎない。だから逆に言うと、歴史小説は、史実という形の上層から下層に掘られなければならないことになると思う。歴史小説と史実が離れられないゆえんである」[105]と述べた。

出版社のシリーズ企画から江戸時代を論じた『幕末の動乱』がまとめられたが、その経験を生かす形で大作『かげろう絵図』『天保図録』が生まれた。

清張は、菊池寛の『日本合戦譚』(1932 - 1934年、『オール讀物』に連載)のモチーフを生かす形で、『私説・日本合戦譚』(『オール讀物』連載)を執筆している。また、岡本綺堂の『半七捕物帳』を始めとする捕物帳にも関心を寄せていたが、短編集成型の連作として『彩色江戸切絵図』『紅刷り江戸噂』を執筆した。ここでも推理小説と同様、シリーズキャラクターの登場は避けられている(『虎』『見世物師』の文吾は唯一の例外)。

近現代史

ノンフィクション作品に加えて、中江兆民を論じた『火の虚舟』、山縣有朋を素材とする小説『象徴の設計』、大久保利通から吉田茂鳩山一郎などを経て1980年に至る日本の首相についての『史観・宰相論』など、主に人物を通して近現代史を再考する取り組みが続けられた。

文藝春秋は、その後も清張に近現代史を素材とした作品を書いてもらう意向を持っていた。頓挫した文藝春秋の企画の一つとして「戦後内閣論」がある[106]

晩年に至り、ノンフィクションから小説作品に案が変更され、『神々の乱心』の執筆が開始された[注釈 32]

評価

日本近代史専攻の有馬学によれば、『昭和史発掘』中で清張の駆使する史料は、当時の研究者から見ても、相当な水準のブレーンがいなければ集め得ないものであったという[107]。このため種々の憶測も生まれたが、清張は「資料の捜索蒐集は、週刊文春編集部員の藤井康栄が一人であたった」と明言している[108]

歴史学者の成田龍一と日本文学者の小森陽一は、『日本の黒い霧』と『昭和史発掘』は、清張の戦後歴史学(アカデミズム)に対する批判意識が見出せると述べている。戦後歴史学が、権力対民衆運動の枠組みに縛られ、権力(=天皇)の問題を考察する(=天皇制は封建制の残滓であり日本の遅れの象徴という)イデオロギー構造になっていたのに対し、敗戦日本を統治したGHQの謀略という視点を持ち込み、また、法則性に基づいた歴史の発展(=マルクス主義)ではなく、個別ばらばらの事件を追求して背景を探るという発想自体、当時の歴史学にはなく、『日本の黒い霧』の手法が新しいものであったこと、『日本の黒い霧』は天皇をめぐる議論には触れていないため、当時の多くの歴史学者は清張の議論を軽視・無視したが、のちに清張は『昭和史発掘』でファシズムの問題に取り組み、戦後歴史学が、大政翼賛会を念頭に思想統制や治安維持法に代表される上からのファシズムを強調するパターンを取っていたのに対して、清張は下士官や兵のレベルまで資料発掘・言及する対象を拡大し、二・二六事件で決起した青年将校や、東京裁判におけるA級戦犯に戦争の全ての責任があるのではなく、国民一人一人が戦争への欲望を持ち、下からファシズムを望んでいたことを論証しようとした、と指摘している[109]

古代史

清張の古代史への関心は、北九州中心に各地の遺跡を歩いていた小倉在住時に培われている。清張は「わたしの書く「歴史」ものでは、古代史と現代史関係が多く、その中間が抜けている。人からよく訊かれることだが、これは「よく分からない」点に惹かれているからだろう。古代史には史料が少ないために、現代史は資料が多すぎるがその価値が定まっていないために、どちらも空白の部分がある。「歴史」はやはり推理の愉しさがなくてはならない」と述べている[110]考古学は創作の初期から重要なモチーフとなり、『断碑』『石の骨』などの短編が書かれた。

評価

清張の提示した仮説に関しては、その後の考古学・歴史学研究の成果により、現在では乗り越えられたものもある。しかし、一般の広い関心を喚起し学界に刺激を与えたとして、その着想を高く評価する学界研究者も存在している。井上光貞上田正昭は、清張が『古代史疑』を発表した時点でこれに高い評価を与えている[111]。この対談にも参加した考古学者の佐原真はのちに、清張の考えそのものには従えないところも多いが、研究者には到底思いもよらないその発想・着想は大いに刺激的であると評している。また清張の古代史論は基本的に文献からの学習に基づいていたが、普通の研究者があまり着目しない明治期以来の古い研究史をも熟読しており、学史の学習が清張を強くしたのではないか、とその特色を分析している[112]

歴史学者の門脇禎二と考古学者の森浩一は対談[113]で、清張没後に進んだ三内丸山遺跡の発掘結果により清張説が否定された例もあるものの、当時の政治史中心の学界に対して、国際的な人的交流、貿易史の視点を強調したこと、あるいは朝鮮文化の影響を大きく評価する当時の研究風潮に対して、ゾロアスター教などペルシア文化の影響力を強調したことなどは、学界に大きな刺激となったこと、また清張がいる間は、学者もテレビなどでいい加減なことは言えない雰囲気があったことなどと述懐している[114]








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