前田多門 前田多門の概要

前田多門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/12 00:11 UTC 版)

前田 多門
まえだ たもん
生年月日 1884年5月11日
出生地 日本 大阪府
没年月日 (1962-06-04) 1962年6月4日(78歳没)
出身校 東京帝国大学

第59代 文部大臣
内閣 東久邇宮内閣
幣原内閣
在任期間 1945年 - 1946年
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経歴

大阪府出身。喜兵衛の長男[1]立教中学一高東京帝国大学卒業後、内務省入省。1916年(大正5年)、後藤新平内務大臣の秘書官に起用され、後藤系の有力官僚となり、1920年(大正9年)、池田宏の後を継いで第2代の内務大臣官房都市計画課長となった[2]。後藤新平が東京市長に就任すると第1助役は永田秀次郎、第2助役は池田、第3助役は前田という後藤のいわゆる「畳」であり[3]、後藤自身および電気局長の長尾半平と合わせて「三田二平」と称された。

1925年(大正14年)3月、外務省守屋栄夫とともに第7回国際労働会議の政府代表に選出。同年5月にジュネーブで開かれた会議に参加[4]、移民制限への反対を訴える演説を行った[5]。翌1926年(大正15年)に開かれた第8回、第9回の国際労働会議にも「国際労働理事会に於ける帝国政府代表」の肩書をもって出席した[6]

1928年(昭和3年)「朝日新聞」論説委員。1938年退社後はニューヨークの日本文化会館館長に就任。 1941年の開戦時には文化会館の閉鎖に奔走して引き揚げのタイミングを逸し、ニューヨークにとどまっていた[7]。帰国後の1943年新潟県知事など歴任。

1945年(昭和20年)2月24日、貴族院議員に勅選され[8]1946年(昭和21年)6月25日まで在任[9])、東久邇宮内閣の文相に就任、教育改革を推進した。幣原内閣でも留任したが戦時中の在任歴から公職追放の可能性があるとされたため、後継に安倍能成を指名して辞職した。1946年、東京通信工業(後のソニー)の初代社長に就任。

財団法人東京市政調査会、日本育英会、日本ユネスコ国内委員会、日本ILO協会各会長、公明選挙連盟理事長等を歴任。帝大在学中、新渡戸稲造に師事して、鶴見祐輔田島道治岩永裕吉とともに「新渡戸四天王」と呼ばれた。学外では内村鑑三の聖書研究会に入門、新渡戸と内村から多大なる影響を受ける。晩年に新渡戸と同じくクエーカーに入信。墓所は多磨霊園(16-1-3-7)。

家族

著書

前田多門

単著

共著

翻訳

関連人物

脚注

  1. ^ 第廿一版 人事興信録 昭和36年(1961年)より
  2. ^ 越澤明『後藤新平 -大震災と帝都復興』平成23年(2011年)169-170、192-193頁。
  3. ^ 畳の旧字体「疊」は3つの「田」の下に「宜」があり、後藤はこれをもじって「田」の字を名前に含む永田・池田・前田の3人に市政を任せれば「宜(よろ)しい」と称した。越澤、同上、193頁。
  4. ^ 第七回総会の派遣代表を発表『大阪毎日新聞』大正14年3月26日(『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編pp190-191 大正ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  5. ^ 『中外商業新報』大正14年5月30日(『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p191)
  6. ^ 第八回、第九回の代表任命『中外商業新報』大正15年3月28日(『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p191)
  7. ^ 在米残留邦人、龍田丸で最後の引き揚げ『朝日新聞』昭和16年11月30日夕刊(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p457 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  8. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、53頁。
  9. ^ 『官報』第5836号、昭和21年6月29日。
  10. ^ バイオニア創業松本望系図近現代・系図ワールド

参考文献

  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 第廿一版 人事興信録 昭和36年(1961年)、ま一六
  • 『政治家人名事典』1990年、編集・発行 - 日外アソシエーツ、479頁
  • 『前田多門 その文・その人』同刊行会、1963年
  • 黒沢英典『戦後教育の源流を求めて 前田多門の教育理念』内外出版、1982年
  • 越澤明『後藤新平 -大震災と帝都復興』ちくま新書、平成23年(2011年)。169-170、192-193頁。ISBN 978-4-480-06639-8
  • 前田多門「序」、『財団法人東京市政調査会四十年史』東京市政調査会、昭和37年(1962年)

外部リンク

公職
先代
(新設)
日本ユネスコ国内委員会会長
1952年 - 1959年
次代
森戸辰男
先代
(新設)
地方制度調査会会長
1952年 - 1956年
次代
高橋雄豺
先代
大内兵衛
社会保障制度調査会会長
1951年 - 1953年
次代
有田八郎
先代
若林良之
神奈川県三浦郡
1912年 - 1913年
次代
北野右一
先代
西川泰彦
群馬県利根郡
1910年 - 1912年
次代
木村二郎
ビジネス
先代
(新設)
東京通信工業社長
初代:1946年 - 1950年
次代
井深大
その他の役職
先代
児玉秀雄(→欠員)
東京市政調査会会長
1951年 - 1962年
次代
田島道治
先代
(新設)
公明選挙連盟理事長
1952年 - 1962年
次代
野村秀雄
先代
中山伊知郎
日本ILO協会会長
1957年 - 1962年
次代
川西実三
会長代行
先代
天野貞祐
大日本育英会会長
日本育英会会長
1953年 - 1956年
大日本育英会会長
1950年 - 1953年
次代
田中義男
先代
岡野保次郎
会長代行
日本ILO協会会長
1950年 - 1953年
次代
中山伊知郎
先代
松村謙三
勤労学徒援護会会長
1945年 - 1946年
次代
安倍能成



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