柏木時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/06 01:59 UTC 版)
神保町の聖書学校と淡路町の女子宿舎が狭すぎるようになったので、中田重治とカウマンたちは新宿に検分に行き東京府豊多摩郡淀橋町柏木に三千坪の土地を購入して、1904年5月に聖書学院の建設を焔の舌に発表した。10月31日に柏木の新校舎に移転して、「聖書学院」と名称を変えて、東洋宣教会性聖書学院との看板を掲げた。また、柏木にあるために、柏木聖書学院ともよばれることになる。この時、秋山由五郎が教師に加わった。 1905年11月東洋宣教会という名称が公式に決められ、カウマン夫妻、アーネスト・キルボルン、中田重治、笹尾鉄三郎が幹部に就任すると。笹尾鉄三郎が聖書学院院長を担当することになった。 1913年(大正2年)4月、笹尾鉄三郎が事実上、聖書学院を退き、フリーの巡回伝道者になる。1914年5月14日に笹尾は聖書学院院長を正式に辞任して、アーネスト・キルボルンが第2代目の院長に就任した。
※この「柏木時代」の解説は、「東洋宣教会聖書学院」の解説の一部です。
「柏木時代」を含む「東洋宣教会聖書学院」の記事については、「東洋宣教会聖書学院」の概要を参照ください。
柏木時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 01:32 UTC 版)
明治40年(1907年)11月、内村一家は角筈から淀橋町の柏木に移った。内村の感化された実業家の今井樟太郎の未亡人ノブの寄付により同年末に内村の活動のための建物を建設し、それが今井館と呼ばれるようになり、無教会主義キリスト教の本拠になった。明治41年(1908年)6月に『聖書之研究』第百号の祝いを兼ねて、今井館の開会式を行った。 明治42年(1909年)秋には、第一高等学校の校長・新渡戸稲造のもとで読書会グループを形成していた学生たちが、新渡戸の推薦状をもって、内村の弟子に入門した。この一団は内村によって柏会と命名された。10月29日に第一回明の会合を行った。岩永裕吉、金井清、川西実三、黒崎幸吉、沢田廉三、膳桂之助、高木八尺、田中耕太郎、田島道治、塚本虎二、鶴見祐輔、前田多門、三谷隆正、森戸辰男、藤井武らがメンバーになった。柏会が結成された二年後の明治43年(1911年)秋に『聖書之研究』で、読者であれば誰でも聖書研究会に出席しても良いと広告された。そして、同年10月1日に矢内原忠雄と坂田祐らが出席した。矢内原は柏会に入し、坂田は南原繁と別の会を作り、明治45年(1912年)1月30日に、白雨会として発足した。 明治44年(1911年)の春頃より、女学校を卒業した娘のルツ子が原因不明の病のために病床に就くことになった。東洋宣教会の教師・笹尾鉄三郎に信仰の導きを依頼した。内村は看病で聖書研究の準備ができなかった、その頃に『デンマルク国の話』が語られ、学生たちに感化を与えた。内村夫妻の不眠不休の看病にもかかわらず、明治45年(1912年)1月12日にルツ子は18歳で夭折した。 柏会は大正5年(1916年)10月に解散して、藤井武、黒岩幸吉、塚本虎二、江原万里、金沢常雄、矢内原忠雄、三谷隆正、三谷隆信、前田多門らが、純信仰的集団のエマオ会を創設した。 これらの会は、大正7年(1918年)から内村が再臨運動を始めると発展解消して、同年9月15日に内村以下82名からなる柏木兄弟団になった。しかし、その4ヶ月後には、門下の医者によりサマリヤ会ができ、大正12年(1923年)12月には足洗会という愛の交わりの集会が生まれた。これは、内村の死後も続き戦後「霊交会」という名前になり長く続くことになる。
※この「柏木時代」の解説は、「内村鑑三」の解説の一部です。
「柏木時代」を含む「内村鑑三」の記事については、「内村鑑三」の概要を参照ください。
- 柏木時代のページへのリンク