大川栄二とは? わかりやすく解説

大川栄二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/31 01:43 UTC 版)

大川 栄二(おおかわ えいじ、1924年大正13年〉3月31日[1][2] - 2008年平成20年〉12月5日[1][2])は、群馬県桐生市出身の実業家、美術品蒐集家。大川美術館創設者・初代館長[2]

経歴・人物

群馬県桐生市生まれ[2]、実家は畳屋であった。桐生高等工業学校(現・群馬大学工学部)染色化学科卒業[2]。1946年、三井物産入社。1969年、株式会社ダイエーへ移り[1][2]、副社長を経て1976年にマルエツ株式会社(旧サンコー)代表取締役社長[2]。1981年、株式会社ダイエー取締役副社長[2]。1983年株式会社丸興(後ダイエーファイナンス、現セディナ)会長[1]中内㓛社長付きの部長という肩書きで、新店舗開発など最前線で指揮をとり、急成長するダイエーを影から支えた。1990年、ダイエーを退職。

若い頃から芸術に興味のあり、1949年から52年にかけて肺結核のための入院療養の間、画家が描いた週刊誌の表紙を収集し、これがのちの美術作品コレクションの原点となった[2]。株などで増やした資産で積極的に名画を買い増し、自己のコレクションを充実させていった。特にピカソルオーといった巨匠のみではなく、国内の若い画家の作品も積極的に蒐集した。実業界を引退後、1986年、愛媛県越智郡玉川町(現・今治市玉川町)の玉川近代美術館開館に協力、1988年には、「小さな街に美術館を」という構想の下、故郷の桐生市水道山の中腹にあった第一勧銀社員寮を改築し大川美術館を開館、理事長兼館長に就任した。

1988年、玉川近代美術館美術館名誉館長[2]。1995年、群馬県総合表彰[2]。2005年、群馬県文化功労賞[2]。2008年、大動脈弁狭窄症のため死去した[2]。享年84。

親族

パイオニア創業者・松本望は従兄にあたる[3]

大川美術館

ウィキメディア・コモンズには、大川美術館に関するカテゴリがあります。

大川栄二が40年をかけて収集した作品約6500点を収蔵。既存の美術史にとらわれず、松本竣介野田英夫の作品を中心に、二人と交友のあった画家、もしくは影響を受けた、あるいは影響を与えたと考えられる画家たちの作品を収集・展示。大川独自の企画による企画展も多数開催した。

著作

  • 『美の経済学』(東洋経済新報社、1984年) 
  • 『美のジャーナル その投資と常識のウラ』(形象社、1989年) 
  • 『父と子のために 絵のみかた たのしみかた』(クレオ、1993年) 
  • 『美術館の窓から 僕はこころの洗濯屋』(芸術新聞社、1993年) 
  • 『二足の草鞋と本音人生』(上毛新聞社、2003年) 
  • 『新・美術館の窓から』(財界研究所、2004年)

脚注

  1. ^ a b c d デジタル版 日本人名大辞典+Plus『大川栄二』 - コトバンク
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 大川栄二 :: 東文研アーカイブデータベース”. www.tobunken.go.jp. 2025年10月31日閲覧。
  3. ^ 松本望『回顧と前進』 下、電波新聞社、1978年6月1日、426-427頁。doi:10.11501/12189904 (要登録)




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「大川栄二」の関連用語

大川栄二のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



大川栄二のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの大川栄二 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS