1世紀 - 10世紀
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66年 Horayotというタルムードに「70年に一度現れる船長を惑わす星」として言及が見られる。この星が66年出現のハレー彗星だと考えられている。この文章は当時のラビ、Joshua ben Hananiahの手によるものとされ、彼の生きている時に起こったものであることから年代が特定された。 141年 『後漢書』に観測記録があり、うみへび座に現れてしし座を通過し、約56日間見えたと書かれている。また、タミル語で書かれたPunaranuruにはチェーラ朝(英語版)の王、Yanaikatchai Mantaran Cheral Irumporaiの死に関連があると書かれている。 218年 建安23年(218年)、朝の東の空に彗星が出現し、彗星の尾が太微垣の五帝座(デネボラ)の方向を指していたことから、帝位に異変が起こる前兆ととらえられた。なお、2年後に献帝 (漢)は廃位され、後漢は滅亡している。 295年 『晋書』に観測記録があり、アンドロメダ座に出現したのち、ペガスス座を通過し、しし座の方へ行ったと書かれてある。 374年 『晋書』に観測記録があり、寧康2年(374年)、みずがめ座に出現し、てんびん座、おとめ座、からす座、コップ座、みずへび座と動いて行ったと書かれている。このとき、ハレー彗星は地球に0.09auまで接近していた。 451年 『宋書』に観測記録があり、元嘉28年(451年)にペルセウス座で見られて、最終的にはからす座で消えたとある。更にヨーロッパでは現在のフランスで行われたカタラウヌムの戦いでアッティラの前進が阻まれ、最終的には負ける前兆となったと考えられている。 530年 『魏書』に観測記録があり、永安3年(530年)8月29日に北東の空でおおぐま座λ星とおおぐま座μ星の東近くに現れた。その後も同様の現象が起こり、9月27日に消えたと書かれている。 607年 『隋書』に観測記録が見られ、大業3年(607年)3月13日にアンドロメダ座で現れてしし座で消えたと書かれている。このときはハレー彗星は地球に0.09auまで接近しており、隋書には100日間以上も見えたことが書かれている。また、同年10月21日にも観測記録が見られるがこれはハレー彗星が近日点を通過した後の観測記録である。 684年 『日本書紀』に観測記録があり、天武天皇の治世13年(684年)9月7日に出現した。日本最古の記録である。『旧唐書』にも観測記録があり、光宅元年(684年)11月11日に西の空に現れたとある。ドイツの『ニュルンベルク年代記』にもハレー彗星と思われるものがあるが、観測から800年経った後に出版されたものであるため作者による想像を含む可能性がある。 760年 『旧唐書』に観測記録が見られ、上元元年に東の空、おひつじ座で見られたと書かれている。 837年 記録に残されている中ではハレー彗星が最も地球に近づいた接近でありその距離は0.03auである。観測記録は中国、日本、ドイツ、中東などで見られた。日本では『続日本後紀』に見られ、4月12日に南東の空に現れたとある。フランク王国皇帝ルートヴィヒ1世はハレー彗星の出現に天の警告と恐れ、祈祷・懺悔をした。中国では『旧唐書』に観測記録があり、開成2年(837年)3月22日に南西の空のみずがめ座α星付近で現れて4月28日にしし座の方で消えるまでが詳細に書かれている。 912年 日本では『日本紀略』『扶桑略記』に観測記録がある。どちらの文献にも7月19日から7月28日に彗星が見られたことが書かれている。中国では『新五代史』に観測記録があり、乾化2年(912年)5月13日にみずへび座の東側で出現したと書かれている。また、アイルランドの年代記、アルスター年代記(英語版)にも彗星について言及がある。 989年 日本では『日本紀略』『一代要記』に観測記録がある。『日本紀略』には7月6日の彗星と8月13 - 23日の彗星が記載されており、前者についてはハレー彗星なのかどうか不明である。『一代要記』では8月15日に東の空に彗星があったと書かれている。中国では『宋史』に観測記録がある。8月13日にふたご座の西で出現し、30日間観測された。最初の10日間は朝に見られたが残りは夕方に見られるようになったとも書かれている。『高麗史』にはハレー彗星と思われるものが記録されているものの10月18日で日付が合っていない。
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1世紀 - 10世紀
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「火山噴火の歴史」の記事における「1世紀 - 10世紀」の解説
1年 - 1000年まで 発生年 火山名 概要 1. 50±100年 - アンブリム島 - VEI6。 2. 79年 - ヴェスヴィオ - 8月24日の大噴火に伴う翌25日朝の火砕流と土石流によりローマ帝国時代のポンペイが全滅、約2,000人死亡。詳細は「79年のヴェスヴィオ噴火」を参照 3. 6世紀前半頃 - 二ツ岳 - 約30年おきに起こった2回の噴火(二ツ岳渋川噴火、二ツ岳伊香保噴火)で二ツ岳の集落を壊滅させる被害。 4. 535年? 416年? - クラカタウ - 噴出量不明、世界各地に異常気象による混乱発生。「535年の大噴火」。ジャワ島の歴史書では噴火を416年としている。ジャワ島西部のカラタン文明の崩壊、およびメキシコのテオティワカン文明の衰退をもたらしたと考えられている。 5. 764年 - 桜島 - 天平宝字8年旧暦12月に島の東岸で噴火。スコリア丘の鍋山を形成し、長崎鼻溶岩流を噴出。『続日本紀』によれば、民家56戸が埋没し、80余人が死亡したという。 6. 864年 - 富士山 - 貞観6年5月25日に噴火。貞観大噴火。記録に残る富士山の噴火では、最大規模。大量の溶岩が流出し、青木ヶ原樹海を形成。詳細は「貞観大噴火」を参照 7. 874年 - 開聞岳 - 貞観16年3月25日(旧暦3月4日)に噴火。山頂火口に溶岩ドームを形成。『日本三代実録』によれば、降灰で作物が枯れ川は濁り、病死者多数。 8. 888年 - 八ヶ岳 - 仁和4年6月20日(旧暦5月8日)に発生した八ヶ岳山体崩壊による千曲川洪水で多数の死者発生。これが八ヶ岳の水蒸気爆発によるものとする仮説がある。 9. 915年 - 十和田湖 - 噴出量6.5km3。火砕流が周囲20kmを焼き払い、火山灰が東北地方一帯に積もる。湖中より噴火。『扶桑略記』によれば延喜15年(旧暦7月5日)に天が暗くなり、数日後に出羽国より降灰の連絡が届いたという。 米代川流域には、胡桃館遺跡などこの噴火によるラハールで埋没した平安時代前期の遺跡が残る。噴火とラハールが民衆に伝承されたものが『三湖伝説』であるという。詳細は「三湖伝説」を参照 10. 946年?(969±20年?) - 白頭山 - 日本の北海道から東北地方にかけて多量の降灰の分布が確認されている。詳細は「946年白頭山噴火」を参照
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