駅設置の経緯とは? わかりやすく解説

駅設置の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 14:21 UTC 版)

岐阜羽島駅」の記事における「駅設置の経緯」の解説

東海道新幹線建設時名古屋以西のルート旧東海道を通るルートが有力であったが、鈴鹿山脈越えるためにはかなりの難工事予想され当時技術的障害建設費用面の問題北陸方面への連絡さらには1958年昭和33年)の国鉄幹線調査会定められた「概ね5年」という工期上の事情もあり、在来線である東海道本線同様に中山道ルート関ヶ原経由)と決められた。 なお、世界銀行からの融資条件である『1964年東京オリンピック開催まで開業する』という工期制約があったという仮説があるが、「名古屋 - 京都間直線結べば標高1,000メートル級の鈴鹿山脈越えとなるので、(中略工期的に非常な難点のあることが明らかになった。一方関ケ原附近地質的に鈴鹿越え大差はないが、ずい道比較短くすむこと及び北陸との連絡至便なことから、結局ここが最終案として本決まりになった。こうして全線基本ルート定められ33年8月幹線調査事務所発注によって航空写真測量開始されのである。」とするように、関ヶ原経由決定したのは、東京オリンピック開催決定され1959年昭和34年)よりも前である。国鉄副総裁当時磯崎叡も、1964年昭和39年6月2日衆議院予算委員会において、同様に1958年昭和33年)に現在のルート採択した旨の答弁行っている。 国鉄1958年昭和33年) - 1959年昭和34年)に岐阜県内の駅設置必要性認識して計画進めていたが、北に大きく迂回することになる県庁所在地岐阜市経由せず、名古屋から関ヶ原までを直線で結ぶ現在の路線に近いルート予定していた。関ヶ原ルート決定後、設置予定駅第一報では名古屋駅の次は米原駅とされていたが、3日後には羽島市への駅設置報じられた。これに対して岐阜市大垣市では駅を誘致する運動展開された。 時の知事松野幸泰要請した大野国鉄との交渉の際、国鉄は駅を作ることをあえて伏せ、「岐阜県内に一駅作るなら地元説得しよう」と大野言わせ顔を立て羽島市内に駅を設置することにより、まるで妥協案が成立したかに見えるよう手配したという経緯がある。岐阜羽島駅設置決定した際には、この経緯が「政治駅」であるとの批判起きたとされる。しかし、大野は「新幹線国家的問題で、岐阜県都合だけで左右することはできない」と述べていたとされ、むしろ政治力決定されていたならば、岐阜駅になっていたと指摘されている。 国鉄職員だった須田寬によると、関ヶ原ルート決定されたとき豪雪地帯を通るため、除雪車待機基地設置できる駅の候補地として、羽島選定されたと述べている。また大垣市は、市街地近く除雪車待機するだけの駅用地確保できず、羽島選定されたことで、立ち退き少なくて済んだ述べている。須田大野影響について駅名に『岐阜』を付けてほしいと言ったようですが、伴睦さんが羽島に駅を造らせたということは絶対にない」と述べている。 詳細は「鉄道と政治#中山道ルートと岐阜羽島駅」を参照

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駅設置の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 17:41 UTC 版)

瀬田駅 (滋賀県)」の記事における「駅設置の経緯」の解説

現在の瀬田駅区間東海道本線開通したのは1889年明治22年)の東海道本線全通時であるが、当時馬場駅現在の膳所駅)から草津駅の間に停車場(駅)はなかった。1900年明治33年7月栗太郡瀬田村当時)は逓信大臣対し、この馬場駅 - 草津駅間の停車場として南大現在の瀬田駅とほぼ同位置)への停車場設置請願した。しかしこの停車場設置請願採用されず、馬場駅 - 神戸駅間の複線化完成した翌年1903年明治36年)に石山駅先に開業することとなった結局瀬田駅設置へと話が進むのは、それから半世紀近く後のこととなる。 瀬田駅設置へ向かうきっかけになったのは、東海道新幹線建設であった東海道新幹線瀬田町当時)を通過するルートとなっており、1960年昭和35年)に地元に対して立ち入り測量了解求めた。これに対して地元は、当時平均国鉄駅間距離4km対し石山駅 - 草津駅間が7.7kmであることなどから、測量協力代償として瀬田駅開設強く主張した。この請願加え当時東海道本線では輸送量逼迫などから1966年昭和41年)から瀬田川橋梁工事をはじめとした京都駅 - 草津駅間の複々線化工事が行われていたことから、この工事関連して行う形で瀬田駅新設された。この瀬田駅請願駅のため、工事費1億1800万円地元瀬田町1967年合併により大津市)が引き受けることとなり、企業からの寄付滋賀県補助大津市市債によって賄われた。また、新設に伴い大津市による瀬田駅前の土地区画整理事業瀬田駅開業した1969年昭和44年)から1977年昭和52年)にかけて実施された。 瀬田駅駅前広場敷地萱野神社境内地一部であった境内地東海道本線設置二分され、さらに駅設置により鎮守の森駅前広場となり消滅したちなみに、東隣の南草津駅1994年平成6年9月4日開業した

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駅設置の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 09:48 UTC 版)

ナゴヤ球場正門前駅」の記事における「駅設置の経緯」の解説

現在、中日ドラゴンズホームグラウンド名古屋市東区にあるナゴヤドームとなっているが、それが完成する1996年までは名古屋駅 - 金山駅間で東海道本線中央本線東海道新幹線名鉄名古屋本線などから眺められる中川区ナゴヤ球場であった名古屋鉄道では、1944年開業した名古屋本線上にある山王駅1956年 - 1974年の間「中日球場前駅」、1975年 - 2005年の間「ナゴヤ球場前駅」と改称し試合開催日には特急・急行電車臨時停車させるなどして輸送努めていた。 1987年4月1日国鉄分割民営化によって発足した東海旅客鉄道JR東海)では、名鉄線より球場に近いところを通っている日本貨物鉄道JR貨物)の名古屋港線貨物線)の第二種鉄道事業取得してこの観客輸送に加わろうと考えた。これは、同年シーズン入り前に落合博満日本プロ野球界初の1億プレーヤーとして中日入団決めていたことも契機となった考えられる。 この構想はこの時が初めではなく昭和20 - 30年代にも球場近く仮設ホーム置いて貨物列車最後部に客車増結する形で観客輸送行っていたことがあった。初は1949年昭和24年10月日米親善野球試合の際で、この時は「中日球場前駅」を名乗っていたという。しかしこの時はデーゲーム限られたものであり、更に運行本数も日1往復微々たるであったため、同線の貨物列車削減と共にいつしか消滅した

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