駅設置の経緯
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東海道新幹線の建設時、名古屋以西のルートは旧東海道を通るルートが有力であったが、鈴鹿山脈を越えるためにはかなりの難工事が予想され当時の技術的障害や建設費用面の問題、北陸方面への連絡、さらには1958年(昭和33年)の国鉄幹線調査会で定められた「概ね5年」という工期上の事情もあり、在来線である東海道本線同様に中山道ルート(関ヶ原経由)と決められた。 なお、世界銀行からの融資条件である『1964年東京オリンピック開催までに開業する』という工期の制約があったという仮説があるが、「名古屋 - 京都間を直線で結べば標高1,000メートル級の鈴鹿山脈越えとなるので、(中略)工期的に非常な難点のあることが明らかになった。一方関ケ原附近も地質的には鈴鹿越えと大差はないが、ずい道が比較的短くすむこと及び北陸との連絡に至便なことから、結局ここが最終案として本決まりになった。こうして全線の基本ルートが定められ、33年8月幹線調査事務所の発注によって航空写真測量が開始されたのである。」とするように、関ヶ原経由が決定したのは、東京オリンピック開催が決定された1959年(昭和34年)よりも前である。国鉄副総裁(当時)磯崎叡も、1964年(昭和39年)6月2日の衆議院予算委員会において、同様に1958年(昭和33年)に現在のルートを採択した旨の答弁を行っている。 国鉄は1958年(昭和33年) - 1959年(昭和34年)に岐阜県内の駅設置の必要性を認識して計画を進めていたが、北に大きく迂回することになる県庁所在地の岐阜市を経由せず、名古屋から関ヶ原までを直線で結ぶ現在の路線に近いルートを予定していた。関ヶ原ルート決定後、設置予定駅の第一報では名古屋駅の次は米原駅とされていたが、3日後には羽島市への駅設置が報じられた。これに対して岐阜市や大垣市では駅を誘致する運動が展開された。 時の知事・松野幸泰が要請した大野と国鉄との交渉の際、国鉄は駅を作ることをあえて伏せ、「岐阜県内に一駅作るなら地元を説得しよう」と大野に言わせて顔を立て、羽島市内に駅を設置することにより、まるで妥協案が成立したかに見えるよう手配したという経緯がある。岐阜羽島駅設置が決定した際には、この経緯が「政治駅」であるとの批判が起きたとされる。しかし、大野は「新幹線は国家的問題で、岐阜県の都合だけで左右することはできない」と述べていたとされ、むしろ政治力で決定されていたならば、岐阜駅になっていたと指摘されている。 国鉄職員だった須田寬によると、関ヶ原ルートに決定されたとき豪雪地帯を通るため、除雪車の待機基地を設置できる駅の候補地として、羽島が選定されたと述べている。また大垣市は、市街地に近く、除雪車が待機するだけの駅用地が確保できず、羽島に選定されたことで、立ち退きが少なくて済んだと述べている。須田は大野の影響について「駅名に『岐阜』を付けてほしいとは言ったようですが、伴睦さんが羽島に駅を造らせたということは絶対にない」と述べている。 詳細は「鉄道と政治#中山道ルートと岐阜羽島駅」を参照
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駅設置の経緯
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現在の瀬田駅の区間の東海道本線が開通したのは1889年(明治22年)の東海道本線全通時であるが、当時は馬場駅(現在の膳所駅)から草津駅の間に停車場(駅)はなかった。1900年(明治33年)7月、栗太郡瀬田村(当時)は逓信大臣に対し、この馬場駅 - 草津駅間の停車場として南大萱(現在の瀬田駅とほぼ同位置)への停車場設置を請願した。しかしこの停車場設置の請願は採用されず、馬場駅 - 神戸駅間の複線化が完成した翌年の1903年(明治36年)に石山駅が先に開業することとなった。結局瀬田駅設置へと話が進むのは、それから半世紀近く後のこととなる。 瀬田駅設置へ向かうきっかけになったのは、東海道新幹線の建設であった。東海道新幹線は瀬田町(当時)を通過するルートとなっており、1960年(昭和35年)に地元に対して立ち入り測量の了解を求めた。これに対して地元は、当時の平均国鉄駅間距離が4kmに対し石山駅 - 草津駅間が7.7kmであることなどから、測量協力の代償として瀬田駅開設を強く主張した。この請願に加え、当時の東海道本線では輸送量の逼迫などから1966年(昭和41年)から瀬田川橋梁工事をはじめとした京都駅 - 草津駅間の複々線化工事が行われていたことから、この工事と関連して行う形で瀬田駅が新設された。この瀬田駅は請願駅のため、工事費1億1800万円は地元の瀬田町(1967年の合併により大津市)が引き受けることとなり、企業からの寄付や滋賀県の補助・大津市の市債によって賄われた。また、駅新設に伴い、大津市による瀬田駅前の土地区画整理事業が瀬田駅が開業した1969年(昭和44年)から1977年(昭和52年)にかけて実施された。 瀬田駅と駅前広場の敷地は萱野神社の境内地の一部であった。境内地は東海道本線の設置で二分され、さらに駅設置により鎮守の森は駅前広場となり消滅した。 ちなみに、東隣の南草津駅は1994年(平成6年)9月4日に開業した。
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駅設置の経緯
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現在、中日ドラゴンズのホームグラウンドは名古屋市東区にあるナゴヤドームとなっているが、それが完成する1996年までは名古屋駅 - 金山駅間で東海道本線・中央本線・東海道新幹線・名鉄名古屋本線などから眺められる中川区のナゴヤ球場であった。 名古屋鉄道では、1944年に開業した名古屋本線上にある山王駅を1956年 - 1974年の間「中日球場前駅」、1975年 - 2005年の間「ナゴヤ球場前駅」と改称し、試合開催日には特急・急行電車を臨時停車させるなどして輸送に努めていた。 1987年4月1日に国鉄分割民営化によって発足した東海旅客鉄道(JR東海)では、名鉄線より球場に近いところを通っている日本貨物鉄道(JR貨物)の名古屋港線(貨物線)の第二種鉄道事業を取得してこの観客輸送に加わろうと考えた。これは、同年のシーズン入り前に、落合博満が日本プロ野球界初の1億円プレーヤーとして中日入団を決めていたことも契機となったと考えられる。 この構想はこの時が初めてではなく、昭和20 - 30年代にも球場近くに仮設ホームを置いて、貨物列車最後部に客車を増結する形で観客輸送を行っていたことがあった。初は1949年(昭和24年)10月の日米親善野球試合の際で、この時は「中日球場前駅」を名乗っていたという。しかしこの時はデーゲームに限られたものであり、更に運行本数も日1往復と微々たる物であったため、同線の貨物列車削減と共にいつしか消滅した。
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