音楽・エピソード
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近代の船場は、大阪商人の財力を背景として豊富な伝統文化と新出の大正文化とを採り入れた地域であり、林はその自由闊達な雰囲気の中で育った。家では長兄がピアノを弾き、オペラ曲をよく歌った。その影響を受けて林も幼少期から音楽が好きであった。関学入学後、それまで米英の合唱曲をとりあげることが多かった関学グリーに、ドイツの合唱曲を持ち込むことを構想する。林は高価な本であったドイツの合唱曲集2冊組を早速購入し、全600曲超を何度も足踏みオルガンで繰り返し弾いてみた。やがて全曲を覚えてしまうと、「まず、その曲を隅から隅まで研究することだ。すると、作曲家の意図が自然と理解できる。いきおい、その曲がおもしろくなる。自分自身がおもしろいと思ってこそ、いい演奏ができるのだ。」と悟る。そして次々に楽譜やレコードを買い求め、男声合唱の理解を深め、「西洋音楽の実践的指導要領」を確立していく。3年生になるころには、林は関学グリー内でも群を抜いた存在となっていた。 学生指揮者に就任して間もなく、純正調ハーモニーの存在を知る。横山大観の水墨画「雲と波」を見て、墨一色のその画から受けたすさまじい動的迫力からヒントを得、林はこれを関学グリーに導入しようと試みるが、部員の理解は容易でなかった。そこで林は、関学の伝統である部員同士の音楽的友情(メンタルハーモニー)を拠り所に練習を通して部員に会得させることに成功した。メンタルハーモニーと純正調のハーモニーとを結び付けて生み出した「関学トーン」はその後の関学グリーの大躍進の源となり、平成の時代に至ってもなお受け継がれている。 第7回競演合唱祭に出場した合唱団は、関学グリー以外はすべて関東の合唱団であった。上京の列車の中で、横浜を過ぎたあたりから乗り込んできた東京リーダーターフェル・フェラインの団員から関学グリーは田舎者扱いの嘲笑を受ける。これをこらえると、不思議に、これまでの不安感が消え、必ず勝つと激しい闘志がわいてきた。結果は優勝を果たし(東京リーダーターフェル・フェラインは5位)、鼻をあかすことに成功した。後日「音楽之友」に掲載された記事では、多くの賞牌を抱えて大喜びする関学グリーの写真とともに「…嗚呼」と記され、「田舎者」に賞をさらわれた関東勢の無念さが表れている。
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音楽・エピソード
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高田三郎作品の名手として知られる。高田作品の初演を多く手掛けるほか、『わたしの願い』『心の四季』『イザヤの預言』等の高田作品の男声合唱への編曲も行った。豊中混声合唱団の定期演奏会ではたびたび高田を客演に招き、高田のローマ訪問にも同行した。一方、コンクールでは「同時代人としての義務でもあると思うし、チャレンジすることの意味も大きい」として、ウェーベルン、バーンスタイン等の現代音楽も積極的に取り上げた。 地縁のない大阪で就職するにあたり、合唱の道を封印し会社勤めに専念する決意をする。ところが口座を開設しようと初任給を持って銀行に赴くと、応対した行員は指揮者の松浦周吉であり、前年の東西四連の演奏会の話題で盛り上がる。松浦との縁は深く、豊中混声合唱団の2代前の指揮者、大阪府合唱連盟理事長の前任はいずれも松浦である。 豊中混声を全国区の合唱団に成長させた名指揮者であるが、自身は「私も一団員です」と名乗る。その姿勢は「指揮者がメンバーといっしょになって、豊混という一つの合唱団を作っていこうという姿勢がはっきりしている」「実績のかげに、大世帯をまとめていく安定したマネージメントが感じられる。その筆頭が須賀さんなのだろう」と評された。
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音楽・エピソード
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MIWOの結成後はピアノ伴奏つき邦人曲を取り上げていたが、音楽学者の皆川達夫が「ポリフォニーはお習字でいえば楷書です。まず合唱団は楷書を勉強してください。」と語った言葉に深く共鳴した雨森は、モンテベルディなどルネサンス期の作品を多く取り上げ、雨森が合唱界で頭角を現すきっかけとなった。ANIMAEでも団員からの「(雨森の)好きなことをやっていい」との提案に対し、結成初年度の演奏会ではプログラムを全てルネサンス・ポリフォニーとした。 選曲については「自分が心底惚れた曲だけを演奏する」姿勢を徹底する。「何とかこの曲のすばらしさを伝えたいという想いをもって演奏すれば、きっと何かが伝わると思うのです。それは、合唱団員に対しても同様です。指揮者が心からその曲に惚れていれば、その想いは歌い手にも大いなる共感となって伝わり、ひいては感動的な演奏として聴き手に伝わるのではないでしょうか」と雨森は説く。 1998年の第51回全日本合唱コンクール全国大会で合唱団まりもあを指揮し、一般部門Bグループで金賞を受賞。全日本合唱連盟に「おかあさん」で登録している合唱団が全国大会で金賞を受賞したのは史上初のことであり、2018年終了時点でも唯一の事例である。もっとも雨森自身は三善晃が唱えた「おかあさんコーラスという言葉に音楽的な意味はありません」という言葉に共鳴していて、「私はそもそも「おかあさんコーラス」という言葉自体があまり好きではありません。(中略)どうしても一段高いところから見下ろしているような響きを感じてしまうからです。」「すべての女性が、分け隔てなく女声合唱という音楽に集ってこそ音楽的に意味ある営みがなされる」というスタンスで女声合唱に向き合っている(「まりもあ」はその後解散し、年齢・方向性により三つの女声合唱団に再編成されている)。
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音楽・エピソード
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第4回全日本合唱コンクールで関西学院グリークラブは前年の一般部門からこの年新設された大学部門に移ることとなり、それまで別部門で棲み分けをしてきた同志社グリークラブと関西大会で直接対峙することとなり、関西代表の1枠を巡って両団が毎年鎬を削る時代の幕開けとなった。この関西大会は松浦の指揮する関西学院が1位、多田武彦の指揮する京都大学男声合唱団が2位、日下部吉彦の指揮する同志社が3位と、後の合唱界を支える面々が顔をそろえることとなった。 大和銀行ではヘンデル、メンデルスゾーン、ブラームス等世界の大作曲家を好んで取り上げた。「とくに私はドヴォルザークとハイドン、モーツァルトが好きで、よくやりました。」「昭和五十年代は全部ミサ曲をやったんです。言葉が同じですから。シードになった翌年は支部大会のあとに本格的に人を集めて練習を始めるんですから、ミサだったらすぐできるわけです。」。上述の経歴から堅物と思われがちであったが、全日本合唱連盟の役員に就任した際のあいさつでは「銀行に在職しておりますが堅い人間ではありません」と述べている。一方古株の団員は「松浦さんはテンポにもこだわりをもっておられ、メトロノームを片手に、納得いくまで楽譜をみながら空振りをしておられた姿をいまでも思い出します。当然練習でもテンポには厳しく、私たち年長組は"インテンポの松浦"と敬意をこめてよんでいました。」と述懐する。 関西の職場合唱団の雄として大和銀行は君臨し続け、同時代の合唱人もその演奏に感服した。大和銀行が3年連続優勝の翌年、招待演奏となり、更にその翌年(1966年)も優勝を果たしたとき、日下部は「招待演奏の次の年も一位になった団体は関学のグリーと大和銀行だけや」「だいたい招待演奏をした後はガタッとくずれるか、もうそれで解散するか(笑)-私がやっていたクローバークラブなんで、まさにその方ですね」と舌を巻き、2年連続のコンクール大賞を獲得したとき審査員だった皆川達夫は「あのころ松浦さんは燃えていましたね、大和の全盛期でした。」と述べ、1985年(昭和60年)の第38回で大和銀行が銀賞に終わったとき(金賞は三菱商事コーラス同好会)、関西で競い合った浅井敬壹は「私たち住友金属のライバルは、ただひたすら大和銀行と思っていましたので、大和以外が出てこられては困るんです。(笑)ところが三菱さんがすばらしい演奏をなさったということをききまして、そうなると私たちはすぐに来年のことを考えるんですね。(大和・住友ともシードを失ったために)来年は支部大会で大和と戦わなければならない、これは負けるだろうなと思っておりましたら、予定どおり負けましたね。(笑)」と述懐している。
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