起源と歴史的経緯
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ガリフナ文化において、ガリフナの人々は自らをガリナグ(Garinagu)ともガリフナ(Garifuna)とも称するが、ガリフナと言う場合は、主に、ガリフナ文化や音楽、そしてダンスのことを指すことが多く、人々を指し示す意味で使われることは相対的に少ない。ガリフナのダンスや音楽の代表例であるプンタの起源については考えられる説が様々ある。プンタという語は、ブンダ(bunda、マンデ系の言葉で「尻」の意味)と呼ばれる古代西アフリカのリズムの名称がラテン語化したものである。また、プンタのダンスは、クリアオ(kuliao)という呼び名でも知られている。この呼び名は、スペイン語の「culeado」(クレアド/fucked person、アナルSEXされた人、の意味)に由来する。別の説では、「from point to point」(爪先から爪先、場所から場所へ動く、といったニュアンス)を意味するスペイン語に由来する、という説もある。 プンタのダンスは、男女のダンサーが観客に囲まれた輪の中で別々に踊る形式で踊られる。男女のダンサーは向き合って踊り始めるが、踊りの動作は各人が自由な振付で踊るので、決まった振付の型があるわけではないが、いつも男女の求愛を表すダンスを踊り、まず、男が求愛し、次に女が求愛し、夫々が踊っている間は片方は、その求愛ダンスを見ている、という形式。そして、それを延々と繰り返し、男女のどちらかが、疲労でもやる気の減退でも理由は何であれ根負けを認めて観客に取り囲まれた輪の外に退散し、その後、即座にその抜けた男女どちらかの代わりに、誰かが輪の中に入ってきて踊り始めれば、また延々と継続され、誰も踊るものが出なくなるまで、終わることなく男女交互の求愛ダンスは続けられる。
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起源と歴史的経緯
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1920年代から1950年代にかけての時期、キューバや大アンティル諸島地域発祥のダンススタイルや歌が世界的に流行し、それらはワラチャと呼ばれた。特に人気の出たキューバ以外の地域は、プエルトリコと、キューバやプエルトリコからの移民が多く住むニューヨーク。また、メキシコでは1950年代から浸透しはじめ1980年代はじめ頃まで、ワラチャは広くメキシコ社会にも浸透した。 そのように20世紀になり広く流行する前、歴史を辿ると18世紀に、四行連の詩に合わせて踊るようになったのが始まり、と言われている。また、コミックソング的なものとして18世紀末頃から歌われだして人気が出た音楽ジャンルでもあり、世間によくいるあんな人こんな人という類型やら世間の習慣風習的なものを歌う。 ワラチャ音楽の起源に関しては、更に歴史を遡り、1583年4月のハバナ、植民地時代のキューバの総督ガブリエル・デ・ルホァン(スペイン語: Gabriel de Luján)が政敵と権力闘争していた時、街頭や広場でギタリストとコーラスが、そういった政争を批判する歌を歌っていた、とする記録もある、勿論、音楽的リズム等は、今現在のワラチャのものとは同じではなかったが。 ワラチャのダンスの起源を遡ると、スペインはマドリードのテアトゥロ・ブフォ(スペイン語: Bufo (teatro))で踊られていたサパテアド(英語: Zapateado (Spain))というタップダンスに辿り着く。テアトゥロ・ブフォは、19世紀にスペインやキューバで人気のあった、観客に風刺的なユーモアと笑いを提供する劇場で、ワラチャは、その中の一部分であったが、後に、ワラチャだけが単独で舞踏会で演じられるようになった。そして20世紀に入り、他ジャンルの音楽と共に演奏され、歌われる機会が増え、より世間に広まっていく中で、クリエイティヴなワラチャの作曲家等のミュージシャンが続々登場し始め、それが20世紀のワラチャの世界的流行へと繋がっていった。 ワラチャは、歌や踊りのジャンルの1つとして19世紀初期以降、伝承文学で語られ続け、今に至っている。それは即ち、長い年月をかけた進化発展を今も続けているからである。
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起源と歴史的経緯
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「ソン・ハローチョ」の記事における「起源と歴史的経緯」の解説
Jarocho(ハローチョ)というのは、メキシコの港町ベラクルス地域の音楽スタイルや音楽、またはその音楽をする人達、のことを指す。また「son」(ソン)は「sound , rumor」〈音、噂〉等の意味であり、ソン・ハローチョの文字通りの意味は「ハローチョの音・音楽」、即ち、ベラクルスの人達が奏でる音楽、ベラクルス地域を発祥とする伝統民族音楽またはフォーク音楽の一種、ということである。 そのソン・ハローチョの起源には複数の要素が含まれる。 アフリカから連れて来られた黒人奴隷や奴隷ではない黒人のフリーマン達、の影響でアフリカのリズムにルーツがある、または影響を受けている。 使用楽器もアフリカルーツのモノが色々とある。 スペインの植民地だった歴史的経緯から、放浪民族ロマ(Gitano/ヒタノ)の音楽の影響(つまりはフラメンコの影響)もある。 というベラクルス地域に、外から流入してきた要素が、元々、ベラクルス地域に住んでいた先住民の音楽と交わり、複数の音楽文化が融合する形で、ソン・ハローチョという音楽が形成されていった。 元々、ソン・ハローチョの音楽やダンスは、観客を楽しませるエンターテインメントな演目でも、文化的な表現ですらもなく、18世紀頃に距離的に隔たった農村集落同士がコミュニケーションを取る為の意志疎通の手段だった。 また、当時の植民地では先住民の文化を矯正して消し去るために、教会側が文化や価値観を押し付けて自分達の色に染めようと試みており、それに住民が「皆、立ち上がれ」と言葉で抵抗運動を呼びかける代わりに、ソン・ハローチョの歌を使って鼓舞したりもした[要出典]。さらに支配体制にとって歌詞が猥褻とか不愉快だと見なされたという理由もあり、当時の植民地では支配側(国家体制側ならびにカトリック教会)によるソン・ハローチョ弾圧・禁止という歴史的経緯がある。 20世紀に入り、メキシコ革命の戦火を逃れアメリカ合衆国(以降アメリカと表記)へ移住する移民が増えて以降、アメリカにメキシコ系アメリカ人が少しずつ増えていく。そんな中、1940年代や1950年代にはメキシコ系アメリカ人コミュニティも数はまだ少ないがアメリカに根付き始め、呼応するようにアメリカでソン・ハローチョのヒット曲が生まれ始めた。「メキシコ系アメリカ人」=「貧しい二流市民で農作業等の雇われ単純労働者」という先入観や固定概念があった当時、ソン・ハローチョの音楽が映画やラジオ等で流れてヒットすることは、それら移民の人々にとって自分達のルーツ音楽をアメリカで聴き、この外国の社会で頑張ろうと力や勇気が湧き、社会的地位の向上やよりよりよい生活を目指す原動力になったという見方もある。 また、20世紀後半、ラティーノ系労働者の労働組合運動が活発だった1970年代にも、ソン・ハローチョの音楽が団結心を高める役割を果たした例もある。あるいはまた、1976年、ロス・ロボスはその年のチャリティー・アルバム「Si Se Puede!(スィ・セ・プエテ!/Yes, We Can!)」(英語)の収益を、アメリカの農場労働者の組合United Farm Workers(英語)に寄付している[要出典]。これはデビュー・アルバムでもあり、ソン・ハローチョの楽曲「El Tilingo Lingo」を収録している。
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