読売ジャイアンツ監督とは? わかりやすく解説

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読売ジャイアンツ監督

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 05:49 UTC 版)

水原茂」の記事における「読売ジャイアンツ監督」の解説

1949年シーズン終了後巨人選手たち三原監督対す排斥騒動起こし、その流れ押され12月31日監督就任することが発表された。1949年チーム戦後初優勝導いた三原総監督異動となる。これは三原水原への扱いに対して不満を持っていた選手大半クーデター起こして事実上指揮権奪ったというのが定説[要出典]となっている。水原自身はこの謀議にはかかわっておらず、「優勝導いた監督辞めさせられるのは筋が通らない」と監督就任反対していたという。 選手兼任監督だった1950年3位に終わるが、1951年から1953年までリーグ3連覇日本一となり、巨人の「第二期黄金時代」を築く。選手には川上哲治千葉茂与那嶺要広田順別所毅彦ら名選手揃っていた。しかし、1954年杉下茂擁する中日ドラゴンズペナント奪われ2位となり優勝逃している。 この間水原監督就任4年目にあたる1953年からユニホームに黒とオレンジチームカラー導入したMLBニューヨーク・ジャイアンツ参考したもの)。 再び独走リーグ優勝達成して臨んだ1955年の日本シリーズ南海4度目対戦になった巨人は第1戦に勝利したが第2戦から3連敗喫しシリーズ初め王手かけられる水原は第5戦に当たって捕手広田順から藤尾茂へ、二塁手千葉茂から内藤博文へ、左翼手樋笠一夫から加倉井実へと若手選手抜擢する賭けに出ると、これらの選手活躍して3連勝して逆転日本一達成した1955年オフ球団社長就任した品川主計水原とそりが合わず品川水原を「権威正力松太郎)に甘える男」と思い込むと、水原品川を「素人のくせに」と反発するなど、ことごとく二人対立した。 翌1956年リーグ優勝達成すると、日本シリーズ対戦相手ライバル三原脩率い西鉄ライオンズとの対戦となり、これはマスコミから(三原巨人退団経緯踏まえて)「巌流島決戦」と喧伝される。シリーズ前の下馬評では巨人有利とされていたが、稲尾和久中西太らの若い力圧倒され、2勝4敗で敗れた。ここで、品川若返りのための組織一新としてチーム改革主張し投手コーチ谷口五郎二軍監督藤本英雄コーチ内堀保更迭平井三郎南村侑広現役引退打ち出す水原反対するが、藤本投手コーチ新田二軍監督内堀二軍助監督コーチ陣異動が行われた。 1957年リーグ優勝したもの日本シリーズでは続けて西鉄ライオンズ敗れる。2年連続日本シリーズ敗退した上でに、対戦成績は1分4敗で1勝も挙げることなく敗れたため、読売内部から水原の手腕を問う声が高まる。品川藤本英雄谷口五郎の両コーチ解任平井三郎南村侑広現役引退決めるが、水原藤本解任反対した。同年12月6日水原品川会談するが、品川気持ち変わらないことを知って、「コーチが悪いのは監督にも責任がある。藤本やめさせるなら、自分身を引く。」と辞意を漏らす。巨人球団オーナー正力松太郎国家公安委員会委員長務めており、水原人事院ビルにあった国家公安委員長室に呼びつけた。正力品川コーチ解任人事について水原新任コーチ人選認めることを条件受け入れるよう命じ水原はこれを聞いて監督辞任撤回する。だが、これを聞いた品川球団社長その場にいたマスコミの前で「きみは虎の威を借る狐だ。ワシ謝れ」と水原をなじり、正力仲裁で何とかその場収めた。この修羅場は「人事院騒動」あるいは「謝れ事件」と報道された。結局藤本谷口コーチ更迭され水原現役引退した中尾碩志樋笠一夫後任コーチ据えた1958年の日本シリーズ三原西鉄ライオンズ3度目対決となった。第1戦から巨人は3連勝して王手をかけるが、明け方まで降り続いたのために第4戦は中止。しかし試合開始前上がっており試合耐えるグラウンドコンディションだったという。九州各地からバス観戦に向かうファンたちに配慮して中止決定とする西鉄側を巨人水原執拗に抗議した認められなかった。その第4戦を落としたものの第5戦は9回表終わって1点リード。しかしその裏西鉄代打小淵泰輔三塁線への打球二出川延明塁審フェア判定したことに水原三塁手長嶋茂雄ファウルだと抗議結局判定は覆らずその後関口清治センタータイムリーヒット放って同点延長10回に稲尾和久サヨナラ本塁打シリーズ史上初)で試合落とした。さらに第6戦開始前西鉄先発メンバー変更申し出当時前日先発メンバー発表)、これを巡って両軍はもめ、井上登コミッショナー挟んで悠然と座る三原苦虫をかみつぶしたような表情水原対峙する写真残っている。この騒ぎ試合開始が遅れ、調整混乱させられ先発藤田元司初回中西太決勝打となる先制2ラン浴びこの試合敗れ稲尾の4連投で4連勝挙げた西鉄史上初の3連敗4連勝許してしまった。水原辞意表明するが、これに対して品川は「このまま引き下がってはきみの負けだ。こうなった何としても西鉄を破るのが男ではないか」と引き止める水原品川慰留言葉を涙を流して聞いたという。 この年オフ投手別所毅彦契約更改登板数の保障求めたことに、「選手起用監督専権事項」と強く批判。この対立マスコミ賑わせたが、最終的に別所誤り認めて謝罪水原できるだけ別所意向沿うように努めることで決着したここまで通算294勝を挙げていた別所は、ヴィクトル・スタルヒン持っていた通算勝利記録303勝)の更新目標としており、登板機会増やしたいという意図があったとされる1959年リーグ優勝を果たすが、今度杉浦忠擁する南海ホークス前に4連敗喫す日本シリーズ1958年第4戦から翌1959年第4戦まで8連敗になり、巨人監督としては原辰徳2020年)が9連敗更新されるまではワースト記録だった。 そして、1960年には三原が同じセ・リーグ大洋監督就任しマスコミから巌流島決戦再びと喧伝される。三原巧み選手起用6年連続最下位だった大洋チーム力引き上げたこの年セ・リーグ混戦であったが、9月中旬以降巨人大洋抜け出し激し優勝争い繰り広げ最終的に巨人大洋屈してリーグ優勝逃し2位となる。リーグ優勝絶望となった10月水原試合終了後カメラマンから執拗に写真取られたことに激怒して、そのカメラマン殴りつけてフィルム取り上げた水原5年連続日本一逃す結果となり、正力オーナー水原対す評価下落11月19日に「グラウンドの恥は、グラウンドでそそぐ」との名言残して水原巨人監督辞任した同年投手陣不調と駒不足もあり、新人堀本律雄69試合登板させるなど酷使堀本2918敗の大活躍で最多勝新人王獲得したが、この投げすぎがたたって間もなく肩を壊し、わずか6年引退した堀本引退時に水原は「君には、全く申し訳ないことをしてしまった。俺が君の寿命縮めてしまったようなものだ。俺がもっと君の登板配慮しておれば、君はもっともっと稼ぐ事ができたのに」と述べたと言う堀本は「私はこの水原さんの一言救われた」と語っている。当時巨人選手だった広岡達朗は、1人2人突出した選手に頼るのではなく長いシーズン見通した投手陣整備起用必要だった記している。

※この「読売ジャイアンツ監督」の解説は、「水原茂」の解説の一部です。
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