読売ジャイアンツ選手時代
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「藤田元司」の記事における「読売ジャイアンツ選手時代」の解説
1957年、大学時代の先輩である水原茂の誘いで読売ジャイアンツへ入団した。1年目の同年から17勝を挙げる活躍を見せて新人王に輝くと、1958年には自己最多の29勝、1959年には27勝を挙げてチームのリーグ優勝に大きく貢献し、セ・リーグ初の2年連続MVPを獲得した。特にプロ野球初の天覧試合となった1959年6月25日の対大阪タイガース戦(後楽園球場)では先発登板すると長嶋茂雄の本塁打でサヨナラ勝ちし、藤田自身も完投勝利を挙げた。1960年は酷使の影響もあって肩を故障したために7勝で終えるが、1962年には13勝、1963年も10勝を挙げる活躍を見せ、リーグ優勝に貢献した。 公式戦では活躍する藤田だが、日本選手権シリーズでは奮闘するも日本一の栄冠には届かず、大学時代と同様にプロ野球でも「悲運のエース」と呼ばれてしまった。 西鉄ライオンズとの対戦となった1957年では全5試合中、4試合でリリーフ登板するも、第2戦では堀内庄の救援で登板して河野昭修にサヨナラ適時打を浴び、再戦となった1958年では稲尾和久と並ぶ6試合に登板し、防御率1.09の好成績を上げるも打線の援護がなく、1勝2敗で終わった。この年の第5戦では、1点差に迫られながらもあとアウト一つで日本一に輝く場面で二死三塁のピンチを迎え、シリーズ全体で不振だった関口清治の胸元へシュートを投げ込んだところ同点適時打となり、最終的に稲尾が本塁打を放って逆転負けを喫する(西鉄はそのまま逆転優勝を果たす)。なお、藤田によれば関口の打球は藤田の右肩付近を力なく飛んで行ったといい、「『右手をちょいと出せば取れたのではないか』と、いまでも思うことがある」と後年になっても思い出していたといい、選手・監督として様々なタイトルや表彰に恵まれた藤田が「たった一つ取れなかった物」として語っている。 1959年の日本シリーズでは、杉浦忠(南海ホークス)の4連投4連勝の陰で第2戦から第4戦まで先発登板し、合計22回を投げる(4試合シリーズでは杉浦の32回に次ぐ記録)が、ここでも奮闘報われず2敗を喫する。前年の第4戦から1961年第5戦にかけて5連敗という不名誉な日本シリーズタイ記録も保持しており、その痩身と味方の貧打に耐え忍ぶ姿から、「元司」の音読みにかけて「ガンジー」とも呼ばれた。藤田は1961年・1963年の日本一メンバーだが、前者では第3戦・第5戦に先発してどちらも早期に降板、後者は第2戦で城之内邦雄を救援して勝利投手になったものの4失点、第4戦では先発するも4回途中で降板するなど、エースらしい働きは出来なかった。 藤田は1963年にコーチ兼任選手に就任し、1964年に現役引退を発表した。社会人野球からのプロ入りだったため、現役生活は僅か8年間と短かった。
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