読売ジャイアンツ選手時代とは? わかりやすく解説

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読売ジャイアンツ選手時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 08:55 UTC 版)

藤田元司」の記事における「読売ジャイアンツ選手時代」の解説

1957年大学時代先輩である水原茂誘い読売ジャイアンツ入団した1年目同年から17勝を挙げる活躍見せて新人王に輝くと、1958年には自己最多29勝、1959年には27勝を挙げてチームリーグ優勝大きく貢献しセ・リーグ初の2年連続MVP獲得した。特にプロ野球初の天覧試合となった1959年6月25日の対大阪タイガース戦(後楽園球場)では先発登板すると長嶋茂雄本塁打サヨナラ勝ちし、藤田自身完投勝利を挙げた1960年酷使影響もあって肩を故障したために7勝で終えるが、1962年には13勝、1963年10勝を挙げる活躍見せリーグ優勝貢献した公式戦では活躍する藤田だが、日本選手権シリーズでは奮闘する日本一栄冠には届かず大学時代同様にプロ野球でも「悲運エース」と呼ばれてしまった。 西鉄ライオンズとの対戦となった1957年では全5試合中、4試合リリーフ登板するも、第2戦では堀内庄救援登板して河野昭修サヨナラ適時打浴び再戦となった1958年では稲尾和久と並ぶ6試合登板し防御率1.09の好成績上げるも打線援護がなく、1勝2敗で終わったこの年の第5戦では、1点差に迫られながらもあとアウト一つ日本一に輝く場面で二死三塁ピンチ迎えシリーズ全体不振だった関口清治胸元シュート投げ込んだところ同点適時打となり、最終的に稲尾本塁打放って逆転負け喫する西鉄そのまま逆転優勝を果たす)。なお、藤田によれば関口打球藤田右肩付近を力なく飛んで行ったといい、「『右手ちょいと出せば取れたではないか』と、いまでも思うことがある」と後年になって思い出していたといい、選手・監督として様々なタイトル表彰恵まれた藤田が「たった一つ取れなかった物」として語っている。 1959年の日本シリーズでは、杉浦忠南海ホークス)の4連投4連勝の陰で第2戦から第4戦まで先発登板し、合計22回を投げる(4試合シリーズでは杉浦32回に次ぐ記録)が、ここでも奮闘報われず2敗を喫する前年の第4戦から1961年第5戦にかけて5連敗という不名誉な日本シリーズタイ記録保持しており、その痩身味方貧打耐え忍ぶ姿から、「元司」の音読みにかけて「ガンジー」とも呼ばれた藤田1961年1963年日本一メンバーだが、前者では第3戦・第5戦に先発しどちらも早期降板後者は第2戦で城之内邦雄救援して勝利投手になったものの4失点、第4戦では先発するも4回途中で降板するなど、エースらしい働き出来なかった。 藤田1963年コーチ兼任選手就任し1964年現役引退発表した社会人野球からのプロ入りだったため、現役生活は僅か8年間と短かった

※この「読売ジャイアンツ選手時代」の解説は、「藤田元司」の解説の一部です。
「読売ジャイアンツ選手時代」を含む「藤田元司」の記事については、「藤田元司」の概要を参照ください。

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