読売ジャイアンツコーチ時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/25 05:35 UTC 版)
「鈴木章介」の記事における「読売ジャイアンツコーチ時代」の解説
鈴木は東京オリンピック終了後、現役を引退して大昭和製紙の社業に専念するつもりでいたが、自身の知人であり当時プロ野球読売ジャイアンツの打撃コーチを務めていた荒川博から「会わせたい人がいる」と連絡を受け、当時の巨人監督であった川上哲治と面会、川上から「巨人軍に入って、トレーニング専門のコーチになってくれないか」と要請され、鈴木は「ゼロから始めるなら、野球界へ行こう。自分に続く者に道を開くことになるかも知れない」と考え、日本球界初というべきトレーニングコーチとして巨人入団を決意した。背番号は78。 1965年から巨人トレーニングコーチに就任し、本格的に選手の指導に乗り出した。指導当初は選手たちから「俺らはオリンピックに出る選手じゃないんだから、走り込む必要はない」という反撥を受けたが、広岡達朗、城之内邦雄、王貞治、長嶋茂雄ら大物主力選手が率先して黙々と走る姿を見せたり、鈴木自身も1日中選手と共に手本を見せる形で走るなどしているうちにトレーニングの効果が出てきたこともあり、鈴木の指導がチーム内部に浸透していくようになった。また『肩や体を冷やす』とされた水泳、『余分な筋肉がつく』とされたウェイトトレーニングと、その当時の野球界で敬遠されていたトレーニング法をいち早く導入した。 鈴木は川上哲治監督時代の1965年から、第一次長嶋茂雄監督時代の1979年まで巨人に在籍したが、その間の鈴木のトレーニング指導は野球選手の体作りに革命を起こす形となり、鈴木の活動に刺激を受けたかのように他球団も続々とフィジカル専門コーチを置くようになった。
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