薫習とは? わかりやすく解説

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くん‐じゅう〔‐ジフ〕【薫習】

読み方:くんじゅう

仏語。香が物にその香り移していつまでも残るように、みずからの行為が、心に習慣となって残ること。


薫習

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/11 16:12 UTC 版)

熏習(くんじゅう、: vāsanāabhyāsabhāvanā、 वासना)とは、身口に現れる善悪の行法もしくは意に現れる善悪の思想が、起こるに随ってその気分を真如あるいは阿頼耶識に留めること。俗にいう「移り香」、香りが衣に染み付いて残存するようなことを言う[1]

薫習が身口意に現れたのを「現行法」(げんぎょうほう)といい、真如あるいは阿頼耶識に気分が留まったものを「種子(しゅうじ)」あるいは「習気」(じっけ)という。このように現行法が真如あるいは阿頼耶識にその種子もしくは習気を留める作用を薫習という[要出典]

薫習の義とは、世間の衣服に実に香なし、もし人、香をもって熏習するに、すなわち香気あるが如し
馬鳴?、『大乗起信論』
熏とは撃発の意味。習とは数々の意味。数々の熏発によってこの種(子)があるから。
慈恩大師窺基撰、『唯識述記』一本

仏教

四薫習

「しくんじゅう」と読む。真妄たがいに薫習し、それによって染浄の二つの法が相続して断続することがないことを説明する。

この四薫習は、馬鳴に仮託される大乗起信論の所説で、根本煩悩である無明が、本来平等一味の世界に対して分別の妄想を生起して、人間に差別的執着を起こさせ、それが世間に差別を生ぜしめ、そこに起こる対立観に人間は苦しめられると染法の重荷を説いて迷いの事実を明らかにする。

また、悟りについては、本来的に一味平等であり、自他一如であるという事実認識が、常に自他対立に迷う人間生存へ影響し作用することによって、人間は迷いを克服し悟りを実現することができると浄法の熏習を説く。このように、流転と還滅(げんめつ)を染浄互熏ということから明らかにする。このような熏習による迷悟の理解は、ひいては人間性の開発(かいほつ)や確立について、また人間形成の問題を考える時、大切な暗示を与える。

無明薫習

衆生は無始からの無明を持っている。真如に薫習し、その薫習によって妄心を生ずる。妄心とは業識である。

妄心薫習

この妄心が還って無明に熏じて不了の念を増やすことになるから、さらに妄境界を現行することとなる。妄境界とは、転識および現識のことである。

妄境界薫習

この妄境界は還って妄心を熏動して諸々の浪を起して、種々の業を造って身心の苦を受ける。分別事識がこれである。以上の三薫習の意味によって染法が相続する。

浄法薫習

これに二つある。真如薫習と妄心薫習である。

真如薫習とは、衆生が真如の法を具備しているので、無明に冥熏することができる。冥熏の因縁によって、妄心に、生死の苦を厭い涅槃を楽求させる。これを真如薫習という。妄心薫習とは、この厭求の妄心が還って真如に薫習することによりその勢力を増し、種々の方便随順の行を起して無明を滅する。無明が滅するから心相みなことごとく涅槃を得て自然の浄業を成就する。この薫習によって浄法が不断となる。

ただし、染法は自性差別するので三種に分けて、浄法は体と用が一つであるから一種で説明している。

三種薫習

  1. 名言薫習(みょうごんくんじゅう):名は名字、言は言説。名字言説の識を分別する。つまり、第六意識が、第七識第八種子識に伝送薫習して、染分の相を成就するから。
  2. 色識薫習:色は眼根に対する諸色である。この諸色によって眼根を引生するのを色識という。この場合、分別すなわち第六意識また第七識第八種子の識に伝送薫習して、染分の相が成就するから。
  3. 煩悩薫習:貪瞋邪険などの煩悩。この煩悩は第六意識が起すものであり、また第七識が第八種子識に伝送薫習して染分の相を成就するから。

以上が唯識の薫習説のあらましである。このような熏習が可能であるためには所熏と能熏とに、それぞれ一定の条件がなければならないので、それぞれ四つの条件をあげる。すなわち所熏の四義と能熏の四義である。

所熏の四義

所熏の四義とは1.堅住性、2.無記性、3.可熏性、4.能所和合性である。

  1. 堅住性とは熏習をうけるものは、永続的に同一性を保持できるものでなければならないということである。途中で間断したり、変化したりしてしまっては、保持している種子も間断し変化してしまうことになってしまうであろうからである。
  2. 無記性とは善悪の種子を熏じつけられるものとしての所熏の識は、それ自身が善であったり悪であったりでは、どうにもならないから、善とも悪とも決定しない無記の性質のものでなければならないという。
  3. 可熏性とは、それが他に支配されるようなものでなく、自主性をもったものでなければならないことと、常恒不変であるというようなものでは熏習する余裕がないから、熏習可能の余裕のあるものでなければならないという。
  4. 能所和合性とは、能熏と和合して離れないものでなければならないという。すなわち、能熏と所熏とが同時同所にして、二者和合して離れないということが条件であるというので、これは他身においてと前後異時におけるものを斥けるものである。そうでないと因果関係が全くこわれてしまうからである。

能熏の四義

能熏の四義については1.有生滅、2.有勝用、3.有増減、4.能所和合転の四義をあげている。一切のものが何でも所熏の阿頼耶識にむかって種子を熏じつけることができるかというと、そうはゆかない。それには四種の条件があるというのである。

  1. 有生滅、これは作用のあるものという意味をふくんでいる。すなわち、影響力を与えるものというのは、当然、働きのあるものでなければならない。作用があるということは変化するものということである。変化のない常住のものは何らの作用はない。いやしくも熏習するものは、第一に自ら変化するものであり、生滅にわたるものでなければならないという。次に、このように変化するものとして作用をもつものであっても、その作用の劣弱なるものではどうにもならないから、
  2. 有勝用という条件がとかれる。たとえば無記心のようなものは力が弱いから問題にならないから、それは善であるとか悪であるとかという強勝な思慮作用でなければならないという。また、ただぶらぶら散歩しておるようなものでは何もならないように、強勢なる行動力をともなうものでなければならない。
  3. 有増減とは、何らの増減のない完全円満なものでは能熏の役を果たしえない。不完全であるから完全へと増長の役を果たすことができるが、究極に達すれば、もはや種子薫習の余地はないからである。したがって、これは薫習が不完全位のものであることを示している。
  4. 能所和合転とは所熏と和合して転ずるものということである。それは薫習をうけるものと同一人であり、同時同処でなければならないという。

以上のような能熏と所熏のそれぞれの条件をもって熏習ということが説かれるが、このような条件を満足するものは識より他にないといわねばならない。

このように熏習という概念は、われわれの意識作用の中で語られ、そこに迷いと悟りがなんであるかが語られている。

ヒンドゥー教

脚注

  1. ^ 井筒俊彦『意識の形而上学』中公文庫、2001年、P.63頁。 



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