緒戦の躓き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:33 UTC 版)
「ベニート・ムッソリーニ」の記事における「緒戦の躓き」の解説
詳細は「北アフリカ戦線」、「東アフリカ戦線(英語版)」、および「イタリア・ギリシャ戦争」を参照 開戦と同時に仏伊国境に展開していたピエトロ・ピントール(英語版)陸軍大将の伊第1軍とアルフレド・グッツォーニ(英語版)陸軍大将の伊第4軍を統合し、名目上の指揮官として皇太子ウンベルトを戴く西方軍集団(ドイツ語版)(Gruppo Armate Ovest)が編成された。軍集団は兵員30万名を数えたが、兵士の装備は劣悪であった。特に山岳戦での冬季装備については全く用意されておらず、極寒のアルプス山脈を進む部隊で凍傷が多発し、雪山での凍傷者数は2151名にも上った。海岸線を進む部隊は国境の街マントンを攻め落として戦術的勝利を得たが、独仏国境のマジノ線と並ぶ要塞線である伊仏国境のアルパイン線(英語版)に到達すると、前時代的な正面攻撃を敢行する司令部の無策で損害を受けた。 結局、フランスが枢軸国に全面降伏を宣言してヴィシーフランス政府が成立するまでの間に631名の戦死者と数千名の負傷者が犠牲となった。イタリアも伊仏休戦協定(英語版)を結び、対価としてマントン割譲とサヴォア、ニースの非武装化を含むイタリア南仏進駐領域の権利を得たが、コルシカや戦略上重要なチュニジアの獲得は果たせなかった。開戦前から危惧されていた軍備の不足や前時代性が想定以上であることを痛感せざるを得なかった。 フランス降伏後、戦いの主眼は想定通り孤立したイギリスとの戦いに絞りこまれた。ドイツが北仏から英軍を追い払い、英本土上陸を目指してバトル・オブ・ブリテンを繰り広げる中、ヒトラーから北アフリカの英領植民地への攻撃が要請された。北アフリカでは仏領チュニジアの脅威が薄れた為、伊領リビアから英領エジプトへの進出が図られ、並行してバトル・オブ・ブリテンにもベルギーに空軍部隊を投入した。ムッソリーニはエジプト遠征を命令し、イタリア・リビア方面軍は西エジプト国境を占領した。また東アフリカのAOI軍を積極的に用いて、英領ソマリランド、ケニア、スーダンなどで英軍に勝利した(カッサーラの戦い(英語版)、ソマリランドの戦い)。 北アフリカ戦線は数的には優勢ではあったが、工業力に乏しく機械化の進んでいない伊軍に比べて英軍は機械化歩兵と戦車部隊を保有しており、軍部内では遠征反対の風潮が非常に強かった。イタロ・バルボ空軍元帥の死後、陸軍参謀長と兼務で後任のリビア総督となったロドルフォ・グラツィアーニ陸軍元帥は「蚤が象に立ち向かう様な暴挙」と忠告したが、対独支援を決めていたムッソリーニは「1000門の大砲を持つとは変わった蚤が居たものだ」と答えるのみだった。遠征が行われると懸念通り遠征軍は輸送力やインフラの乏しさから兵站を維持できず、アレクサンドリアに向かう鉄道の始点である メルサ・マトルー(英語版)へ到達する前に補給線が伸びきりシディ・バラーニ(英語版)で攻勢限界点に達した。グラツィアーニ元帥はバルボ時代から繰り返されていた機械化装備と装甲戦力の増派を求めたが、バドリオ元帥らの反対もあって実現しなかった。バトル・オブ・ブリテンに参加した空軍部隊は航続距離の不足や数の少なさから、英軍勝利に傾く戦局に影響を与えることはできなかった。唯一戦略的勝利を得ていた東アフリカ戦線も補給手段が殆ど存在しないという悪条件から、主戦線である北アフリカ戦線が停滞してからは防戦一方となった。最終的に英軍のコンパス作戦でエジプト遠征軍は包囲殲滅され、AOI軍は正規兵とアスカリが殆ど戦死するか負傷するまで戦い抜いたが(ケレンの戦い)、ゴンダールの戦い(英語版)を最後にAOI軍の組織的抵抗は終焉した。 対英戦の打開を望んだムッソリーニは東・北アフリカ戦線と平行して陸続きで属国アルバニアという橋頭堡もあるバルカン半島での軍事行動を決め、親英国であるギリシャへの侵攻を決意した。ギリシャを攻め落とせばバルカン半島は枢軸国一色に染まり、英軍はアフリカの背後である中東の英領植民地への侵攻を危惧する必要があった。エジプトやイラク、シリアで反英闘争が盛り上がりを見せていたことも後押しとなったが、これまで対英戦を後押ししていたヒトラーからは強く反対された。英本土上陸が不可能になった後、ヒトラーは対英戦を棚上げして中立同盟を結んだソ連へ奇襲を仕掛けて侵攻する構想を立てていたが、この時点では同盟国にも秘匿されており、ムッソリーニにも通告はされていなかった。ムッソリーニの側もルーマニア進駐などを相談なく進めたヒトラーに不信感を覚えており、枢軸内で並行して戦争を進める決意を固めていた。 緒戦で投入が準備された戦力はギリシャ軍より僅かに多い程度であったが、これは第一次世界大戦後の希土戦争の戦訓から「弱小なギリシャ軍」への蔑視感情が存在していたことによる。しかしギリシャ軍はエピロス山岳地帯に自然を利用した強固な防衛線を構築しており、枢軸陣営のブルガリアが中立を宣言していたことから山岳地帯を迂回することも不可能であった。また軍部は開戦直後の兵員不足を補うべく大規模な動員令を実施したが、国内生産力の低下が問題視されたために動員を部分解除する方針に切り替えていた。突然の戦線拡大は兵員割れを起こした師団での戦闘を意味しており、軍部は遠征に強く反対した。ムッソリーニ自身も躊躇を覚えたが、最終的にはローマ進軍記念日の10月28日にアルバニア駐留軍による進軍が開始された。 戦いではセバスティアーノ・ヴィスコンティ・プラスカ陸軍大将が率いる8万7000名の兵士がエピロス山脈北部に進出したものの、雨季の山岳地帯での行軍は困難を極め、かつてのイソンヅォ戦線の再来とも言うべき停滞した山岳戦が続いた。ギリシャ軍の増員や同盟軍であるアルバニア軍の反乱が相次ぐ中で逆に戦線は後退し、守勢に回って逆にアルバニア南部に防衛線を形成するという屈辱を味わった。ムッソリーニは「ギリシャに負けるのなら、私はイタリア人であることを辞める」とまで語っている。大国イギリスはともかく格下のギリシャに苦戦するという惨状にムッソリーニは軍部への失望を深め、懲罰人事としてバドリオ元帥を参謀総長から解任した。
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