第8編の内容
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白楽天は要するに凡人であった。俗人であった。別に絶倫な精力も、峻烈な意気も、驚嘆すべき実際的手腕も無かった。彼の志は高遠であるが、不幸にしてその直接実現の手段を欠いて居た。専ら詩に依って社会の真相を詠う他は無かった。この点では確かに前代の杜甫とともに大なる功績があった。民衆詩人、社会詩人であったから、あまり高い仙調は無かった。彼は飽く迄も地上の詩人であった。地上の一切の出来事を純な情緒と深い思念とを以て観察し、美しく素直に歌うたのである。その詩は「情致曲尽して、悉く人の肝脾に入る」ところに、声名と同時に批難とがあるのである。彼の一生の鳥瞰図を示そう。唐の内政腐敗の時代に乱離と不安との世に、白楽天はその少年時代を過ごした。非常な苦学をしたらしい。父は地方官。転勤が多く落ち着きのない生活の中、或る時は一家兄弟「五処に離散して、明月に涕いた」こともあった。15、6の時進士に登第することを志し、27で進士に、804年(貞元20年)、33歳で官界に歩を入れた。母、弟、姪らとともに長安郊外渭水の畔に家庭を持った。官職は秘書省の校書係であったので、時折都に出勤すればそれで済んだ。勤めの都合により都に移る。馬一頭と二人の下僕を使って、なおあまるほどの月給は貰えた。この頃から文名が世間に出る。30半ばで妻帯せず。ほどなく相当の年配の婦人と結婚。35歳の冬、高等試験に及第して盩厔に赴任した。陳鴻や王質夫と交友。仙遊寺に遊び、長恨歌ができ、詩名は忽ち長安の詩壇を騒がすに至った。翌年進士の試験委員になり、その秋ついに翰林学士となる。37の4月末には、憲宗皇帝により抜擢されて、諫官に挙げられた。「凡そ諫官の職分は、法令の施行、事業の企画に際して、時代の要求に妥当ならず、公益に適合せざるもの有るとき、或いは上書し、或いは廷諍すべきものであって、その選甚だ厳かに、その秩禄は寧ろ卑しかるべきものである。」「すでに位置も未だ惜しむに足りぬ。ここに於て苟も規諫を忽諸に附せず、朝廷の得失、天下の利害悉くこれを審議し批判しないでは舍かない。これこそ即ち諫官制度の本旨である。」彼は諫官の職を一種の名誉職と断定したのである。秩禄を主としないで、専ら直言を立てしむべき、特に道徳的なる行政機関としたのである。呉元済の叛乱以前、白楽天は三年の定限尽きて諫官の地位を去り、次いで母の死に会うて、渭水の村に退官した。貧乏に還らねばならなかった。このとき弟は病に罹り、一人娘が三歳で没くなってしまった。飲酒に走った。鬱すると渭水へ魚釣に出かけた。43の冬、太子の傅育官に就職し、その時ちょうど叛乱となったのである。815年(元和10年)6月、宰相武元衡暗殺さる。白楽天はこの人物を推重していたため痛憤止るかたなく、司法権の発動を上書した。この上奏が諫官御史等を差し置いた行為であったため、その不法不敬は批難の的となり、江州の司馬に左遷された。44の秋、九江の地に赴いた。司馬は閑職。江州は匡廬の山を左にし、潯陽江を右にして、天下の風景の粋ともいわれる処である。自然は確かに傷つける魂に新たなる力と生命とを与える。彼はここで心ゆくまで自然の情調に浸り、その推移を観じた。この間幸いにして政府は武元衡の刺された後、裴度が代わって討伐を決行した。叛臣呉元済は惨敗して斬られた。楽天も江州草堂に3年の春を迎えて、新たに忠州の刺史に任ぜられた。穆宗皇帝の世になって、楽天は六年ぶりに都に召喚されて中書舎人に上った。しかし穆宗は頗る暗君。上奏諷諫に何等の功無く、杭州刺史となり中央政府を去る。次に蘇州の刺史に。杭州蘇州移動の間に一寸東都に還り、老後の生活のために17畝許りの屋敷を買った。そののち、刑部の侍郎、河南の尹を務め、益々自由な生活を求めた。杭州の刺史をやめたとき、彼は天竺石一つと鶴二羽とを得た。蘇州から帰ったときは、太湖の石や、白蓮、折腰菱、それから青版の舫を持ってきた。刑部侍郎をやめたときには飯米も蓄えられた。池中の三島に径を通じ、反橋を架け、池の環りにも路をつけて、その鶴を放ち、白蓮や折腰菱を種え、青版舫を浮かべたりして楽しんだ。彼の風流な友達は彼に色々な贈り物をした。潁川の陳孝山は酒を贈り、博陵の崔晦叔は琴を贈った。また蜀客の姜発は彼に秋思の曲を教えてくれた。宏農の楊貞一は散策の腰を下ろすように、長方形で滑らかな三つの青石を譲った。彼はほとんど池を中心にその静かな悦びの生活を送った。――凡そ三任(杭州、蘇州、刑部侍郎)の得るところ、四人の与うるところ、および我が不才の身と、今率うて池中の物となる――と言った。そして水香しく蓮花の開く旦、露清く鶴唳く夕、楊貞一の青石に坐って、陳孝山の酒を酌み、崔晦叔の琴を弾いて、姜発の曲を歌い、世間の事は何も考えなかった。或いは召使とともに飲み且つ歌うた。それにこの頃すでに樊素と小蛮との二美人が彼に侍して居た。彼は幾つになっても青年のような純な情緒を持っていた人である。樊素は中でも楊柳枝の曲に巧なために楊枝といわれていたほど、歌にもまた舞にも達者な女であった。楊枝は十年あまりも、彼のために詩であり、熱であり、光であった。しかしながら、ある人格、殊に東洋的人格に於ては、如何なる恋愛も、芸術的陶酔も、紛らすことのできないある寂しさと空虚とがある。それは自ら自らの内界に沈潜することに依ってのみ僅かに慰めることができる。彼は詩と酒と愛とに陶酔する半面に、また肉を絶ち、独坐して、瞑想し調息せざるを得なかった。東洋の人格によく見受けられる心憎い安立(Ruhe)はこの静坐と沈黙とに最もよく養われる。67の時、彼は酔吟先生伝を作って言っている。「姓字も郷里も官爵も忘れて」酔吟先生と号した。しかし、翌年愛馬「駱」を手放し、愛人の楊枝とも別離せねばならなかった。70古稀にして官累を去った。香山に居を卜して、自らも香山居士と号し、白衣を纏い、鳩杖を曳き、石壁を遮る乱藤や、雲林を護る絶澗に逍遥して楽しんだ。彼は佛書を読み、禅僧と遊び、偈頌を作る宗教芸術的陶酔に依って塵事を忘るることに大いなる愉快を感じたのである。彼の穏やかな温かい性情は常にほのぼのと地を暖めていた。地上の如何なる嘆きも争いも、彼の胸の奥底まで攪して、その正念(Ruhe)を失わすことはなかった。そしてその慕わしい性情が醜く凄ましい政界より、静けく遥かな境、例えば渭水の畔の楡柳の家や、香爐峯の麓の草堂のように、また無礙で自由な、何物をも有たぬ禅僧の心地を愛せしめたのである。白楽天は禅僧と遊ぶのが好きであった。76年、東都履道里の私第で永眠。道に遊ぶ童も彼の長恨歌を誦し、胡人も彼の琵琶行を吟じた。人として何の奇も無かったことは確かである。後世その詩とともに白俗といわれている。それでいて不思議に一種懐かしい人格であることもまた確かである。それは彼が我々と同じような気分や生活を続けながら、その底に自ら床しい安立(Ruhe)を得ていた所為であろう。そこに我々の大いに学ばねばならぬところがある。これ筆者が彼を敬慕すべき凡人という所以である。
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