第8編の内容とは? わかりやすく解説

第8編の内容

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 08:32 UTC 版)

支那思想及人物講話」の記事における「第8編の内容」の解説

白楽天要する凡人であった俗人であった別に絶倫精力も、峻烈意気も、驚嘆すべき実際的手腕無かった彼の志は高遠であるが、不幸にしてその直接実現の手段を欠いて居た専らに依って社会真相詠う他は無かった。この点では確かに前代杜甫とともに大なる功績があった。民衆詩人社会詩人であったから、あまり高い仙調は無かった。彼は飽く迄も地上詩人であった地上一切出来事純な情緒と深い思念を以て観察し美しく素直に歌うたのである。その詩は「情致曲尽して、悉く人の肝脾に入る」ところに声名同時に批難とがあるのである彼の一生の鳥瞰図示そう。唐の内政腐敗時代乱離と不安との世に白楽天はその少年時代過ごした。非常な苦学をしたらしい。父は地方官転勤多く落ち着きのない生活の中、或る時は一家兄弟五処離散して明月に涕いた」こともあった。15、6の時進士登第することを志し27進士に、804年貞元20年)、33歳官界に歩を入れた。母、弟、姪らとともに長安郊外渭水の畔に家庭持った官職秘書省校書であったので、時折都に出勤すればそれで済んだ勤め都合により都に移る。馬一頭二人下僕使って、なおあまるほどの月給貰えた。この頃から文名世間に出る。30半ば妻帯せず。ほどなく当の年配の婦人結婚35歳の冬、高等試験及第して盩厔赴任した。陳王質夫と交友仙遊寺遊び長恨歌ができ、詩名忽ち長安詩壇騒がす至った翌年進士試験委員になり、その秋ついに翰林学士となる。374月末には、憲宗皇帝により抜擢されて、諫官挙げられた。「凡そ諫官職分は、法令施行事業企画に際して時代要求に妥当ならず、公益適合せざるもの有るとき、或いは上書し、或いは廷諍すべきものであって、その選甚だ厳かに、その秩禄寧ろ卑しかるべきものである。」「すでに位置未だ惜しむに足りぬここに於て苟も規諫を忽諸附せず朝廷得失天下利害悉くこれを審議し批判しないでは舍かない。これこそ即ち諫官制度本旨である。」彼は諫官の職を一種名誉職断定したのである秩禄を主としないで、専ら直言立てしむべき、特に道徳的な行政機関としたのである呉元済の叛乱以前白楽天三年定限尽きて諫官地位去り次いで母の死に会うて、渭水退官した。貧乏に還らねばならなかった。このとき弟は病に罹り一人娘三歳で没くなってしまった。飲酒走った鬱する渭水魚釣に出かけた。43の冬、太子傅育官に就職しその時ちょうど叛乱となったのである815年元和10年6月宰相武元衡暗殺さる。白楽天この人物を推重していたため痛憤止るかたなく司法権発動上書した。この上奏が諫官御史等を差し置いた行為であったため、その不法不敬批難の的となり、江州司馬左遷された。44の秋、九江の地に赴いた司馬閑職江州匡廬の山を左にし、潯陽江を右にして、天下風景の粋ともいわれる処である。自然は確かに傷つける魂に新たなる力生命とを与える。彼はここで心ゆくまで自然の情調浸り、その推移を観じた。この間幸いにして政府武元衡刺された後、裴度が代わって討伐決行した叛臣呉元済は惨敗して斬られた。楽天江州草堂3年の春を迎えて新たに忠州刺史に任ぜられた。穆宗皇帝世になって、楽天は六年ぶりに都に召喚され中書舎人上った。しかし穆宗頗る暗君上奏諷諫何等の功無く杭州刺史となり中央政府を去る。次に蘇州刺史に。杭州蘇州移動の間一寸東都還り老後の生活のために17許り屋敷買ったそののち刑部侍郎河南の尹を務め益々自由な生活を求めた杭州刺史をやめたとき、彼は天竺一つ二羽とを得た蘇州から帰ったときは、太湖の石や、白蓮、折腰、それから青版の舫を持ってきた。刑部侍郎をやめたときには飯米蓄えられた。池中三島に径を通じ反橋け、池の環りにも路をつけて、その放ち白蓮や折腰を種え、青版舫を浮かべたりして楽しんだ彼の風流な友達彼に色々な贈り物をした。潁川の陳孝山は酒を贈り博陵の崔晦叔は琴を贈った。また蜀客の姜発は彼に秋思の曲を教えてくれた。宏農の楊貞一は散策腰を下ろすように、長方形滑らかな三つ青石譲った。彼はほとんど池を中心にその静かな悦びの生活を送った。――凡そ三任(杭州蘇州刑部侍郎)の得るところ、四人与うるところ、および我が不才の身と、今率う池中の物となる――と言った。そして水香しく蓮花の開く旦、露清く鶴唳く夕、楊貞一の青石に坐って、陳孝山の酒を酌み、崔晦叔の琴を弾いて、姜発の曲を歌い世間の事は何も考えなかった。或いは召使とともに飲み且つ歌うた。それにこの頃すでに樊素と小蛮との二美人彼に侍して居た。彼は幾つになって青年のような純な情緒持っていた人である。樊素は中でも楊柳の曲に巧なために楊枝といわれていたほど、歌にもまた舞にも達者な女であった楊枝十年あまりも、彼のために詩であり、熱であり、光であったしかしながら、ある人格殊に東洋的人格に於ては如何なる恋愛も、芸術的陶酔も、紛らすことのできないある寂しさ空虚とがある。それは自ら自らの内界沈潜することに依ってのみ僅かに慰めることができる。彼は詩と酒と愛とに陶酔する半面に、また肉を絶ち独坐して、瞑想し調息せざるを得なかった。東洋人格によく見受けられる心憎い安立(Ruhe)はこの静坐沈黙とに最もよく養われる67の時、彼は酔吟先生伝を作って言っている。「姓字も郷里官爵忘れて酔吟先生号した。しかし、翌年愛馬「駱」を手放し愛人楊枝とも別離せねばならなかった。70古稀にして官累を去った香山に居を卜して、自らも香山居士号し白衣纏い鳩杖を曳き、石壁を遮る乱や、雲林護る絶澗に逍遥して楽しんだ。彼は佛書読み禅僧遊び偈頌作る宗教芸術的陶酔に依って塵事忘るることに大いなる愉快を感じたのである彼の穏やかな温かい性情は常にほのぼのと地を暖めていた。地上如何なる嘆き争いも、彼の胸の奥底まで攪して、その正念(Ruhe)を失わすことはなかった。そしてその慕わしい性情醜く凄ましい政界より、静けく遥かな境、例え渭水の畔のの家や、香爐峯の麓の草堂のように、また無礙自由な何物をも有たぬ禅僧心地愛せしめたのである白楽天禅僧と遊ぶのが好きであった76年東都道里の私第で永眠。道に遊ぶ童も彼の長恨歌誦し胡人彼の琵琶行吟じた人として何の奇も無かったことは確かである。後世その詩とともに白俗といわれている。それでいて不思議に一種懐かし人格であることもまた確かである。それは彼が我々と同じよう気分や生活を続けながら、その底に自ら床しい安立(Ruhe)を得ていた所為であろう。そこに我々の大いに学ばねばならぬところがある。これ筆者が彼を敬慕すべき凡人という所以である。

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