社会主義の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 03:51 UTC 版)
詳細は「アルメニア・ソビエト社会主義共和国」を参照 究極の選択の末にダシュナク党政府は赤軍の進駐を受け入れ、12月2日、アルメニアは社会主義国家となった。エレヴァンにはすぐさまチェーカー(秘密警察)が設置され、旧軍将校など数百人が逮捕、銃殺された。革命委員会は、農民の階層も心情も考慮せず徴発と国有化を開始し、翌1921年2月にはこれに反発したダシュナク党による農民反乱が発生した(二月蜂起(英語版))。一時は首都エレヴァンを奪回した反乱軍であったが、赤軍の反攻により東部のザンゲズル(ロシア語版)まで追いつめられた。そして7月末には反乱軍による山岳アルメニア共和国の拠点が制圧され、ここにボリシェヴィキのアルメニア支配は盤石なものとなった。 やがてアゼルバイジャン、アルメニアと同様にグルジアも赤軍の侵攻を受けて共産化したため、南カフカース3か国は10月に、赤軍立会いのもと、トルコとカルス条約を締結した。この結果、ロシア帝国領であった西方の旧カルス州、スルマリ(英語版)などがトルコへ割譲され、南方のナヒチェヴァンがアゼルバイジャンに属する飛地とされた。そして、長らくアルメニア人の精神的シンボルであったアララト山も、以降はトルコの領土とされた(しかし、その後もアララト山はソビエト・アルメニアの国章で意匠として用いられた)。一方、東方でアゼルバイジャンとの係争地となっていたナゴルノ・カラバフについては、同年7月にボリシェヴィキ中央委カフカース局での討議により、一度はアルメニアへの帰属が確認されていた。しかし、この決定は直後に不明確な理由でアゼルバイジャンへの帰属として覆ったため、のちに紛争の火種を残すこととなった。 1922年12月にソビエト連邦が発足した際、アルメニアは経済的な理由から 南カフカースのアゼルバイジャン、グルジアとともにザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国を形成し、それを介して間接的にソ連へ加盟するという方法をとった。アルメニアが直接のソ連構成共和国となるのは、1936年12月のスターリン憲法成立により、ザカフカース連邦が解体されてからのことである。この間にネップとコレニザーツィヤ(英語版)(民族文化振興政策)が導入されたアルメニアでは、経済と文化にも大きな転機が訪れた。アルメニア語は数百年ぶりに学術用言語としてよみがえり、大学や音楽院、劇場、映画スタジオなどの建設によって、社会主義の許す限りで民族文化が復興した。伝統的な女性の役割にも見直しが加えられた。1920年代前半にはギリシャやトルコ、メソポタミアなどから2万人近くのディアスポラが帰還し、反面で少数民族が流出したことによって、アルメニアの社会は均質化した。 1920年代末にヨシフ・スターリンがソ連中央の実権を握ると、ネップは五カ年計画による強制的な集団農場化、コレニザーツィヤは民族主義批判とロシア化へ転換した。さらには大粛清においても1936年から1939年までに数万人が犠牲となった。直後に大祖国戦争が始まると、アルメニアからも30万人から50万人が参戦し、そのうち戦死者は17万5,000人に達した。 続いて冷戦が始まると、1945年3月にソ連は、1925年からの対トルコ友好条約を破棄した。アルメニアのトルコに対する民族意識は再び高まり、カトリコスのゲヴォルク6世(ロシア語版)はカルス県とアルダハン県に対するアルメニアの領有権を公言した。そして、ソ連外相のヴャチェスラフ・モロトフもこれに応えて、ポツダム会談の席上でカルス、アルダハン2県のトルコに対する領土主張(ロシア語版)を行っている(しかし、これは英米の反対で退けられた)。 また、終戦直後には再度の帰還運動が展開され、ディアスポラ組織や教会の宣伝活動によって10万人を超える在外同胞が、おもにギリシャや中東からアルメニアへと移住した。しかし、こうした移住者は当局から信用されず、スパイ視されてシベリアへ流刑されることもしばしばであった。反面、虐殺生存者の子孫である彼らが国内に流入したことにより、アルメニアで虐殺の過去を語ることはタブーではなくなった。1965年に行われた虐殺50周年記念集会(アルメニア語版)は、ソ連でも空前の規模のデモに発展し、翌年にはエレヴァン近郊に慰霊塔「ツィツェルナカベルド(英語版)」が建設された。 スターリン批判後からは再度アルメニア語やアルメニア文化が容認されるようになり、1970年代にはアルメニア語を母語とみなす人口の割合が99パーセント超と、ソ連国内でもっとも高い割合にまでなった。同時期には観光業がアルメニアの主要産業となり、各国から招かれたディアスポラに対し社会主義の成果が喧伝された。メツァモール原子力発電所の建設などで工業生産額がアゼルバイジャンとグルジアを上回った一方、公害や環境破壊もまた著しく進み、汚職の蔓延により公共財の盗難や賄賂までが珍しいことではなくなった。 アルメニアでの反体制活動がみられるようになったのもこの時期であり、流刑された映画監督、セルゲイ・パラジャーノフの作品や、あるいは独立運動過激派による1977年のモスクワ地下鉄爆破テロ(ロシア語版)などにそれは現われた。そして1980年代からのペレストロイカ時代、長らく棚上げにされていたナゴルノ・カラバフ自治州の帰属問題が再燃し、アルメニア人はアゼルバイジャン領とされていた自治州の、自国への統合を求めて活動を開始した。しかし、この反応としてアゼルバイジャンではアルメニア人が虐殺され(スムガイト事件)、ソ連政府もアルメニア人の要求を拒否し、加えて同時期に発生したアルメニア地震に対しても、政府は有効な対応を取らなかった。 政府の権威が下落する中、1990年5月に実施されたアルメニア最高会議選挙においては、全国民運動が多数派となった。8月には全国民運動からレヴォン・テル=ペトロシャンが、共産党のウラジーミル・モフセシャン(アルメニア語版)を破って最高会議議長に選出された。そして、1991年8月の保守派クーデターが失敗した直後の9月21日、アルメニアはソ連からの独立を宣言した。
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