真崎の事件関与とは? わかりやすく解説

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真崎の事件関与

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:22 UTC 版)

二・二六事件」の記事における「真崎の事件関与」の解説

事件黒幕疑われ真崎甚三郎大将(前教育総監皇道派)は、1937年昭和12年1月25日反乱幇助軍法会議起訴されたが、否認した論告求刑反乱者を利する罪で禁錮13年であったが、9月25日無罪判決が下る。もっとも、1936年3月10日真崎大将予備役編入される。つまり事実上解雇である。彼自身晩年自分二・二六事件黒幕として世間から見做されている事を承知しており、これに対して怒り感情抱きつつも諦めの境地入っていたことが、当時新聞から窺えるまた、26日蹶起知った際には連絡した亀川に「残念だ今まで努力水泡に帰した」と語ったという。 一方真崎甚三郎取調べに関する亀川哲也第二回聴取書によると、相沢公判控訴取下げに関して鵜沢総明博士元老訪問対す真崎大将意見聴取真の訪問目的であり、青年将校蹶起に関する件は、単に時局収拾お願いしたい考え附随して申し上げた、と証言している。博士元老訪問に関するやりとりのあと、亀川が「なお、実は今早朝一連隊と三連隊とが起って重臣襲撃するそうです万一場合は、悪化しないようにご尽力お願い致したいと言うと、「もしそういうことがあったら今まで長い間努力してきたことが全部水泡に帰してしまう」とて、大将は大変驚いて茫然自失見えたという。そして、亀川辞去する際、玄関で、「この事件事実ありましたら、またご報告参りますと言うと真崎は「そういうことないよう祈っている」と答えたまた、亀川は、真崎大将辞去後、博士訪問して帰途高橋蔵相邸の前で着剣する兵隊見て、とうとうやったなと感じ、後に久原房之助邸に行ったときに事実詳しく知った次第であり、真崎邸を訪問するときは事件起こったことは全然知るよしもなかった、ということである。 しかし、反乱軍同情的な行動取っていたことは確かであり、26日午前9時半陸相官邸訪れた際には磯部浅一に「お前達気持ちはヨウッわかっとる。ヨウッーわかっとる。」と声を掛けたとされ、また川島陸相に反乱軍蹶起趣意書天皇上奏するよう働きかけている。このことから真崎大将関与指摘する主張もある。 一方当時真崎大将護衛であった金子憲兵伍長少尉候補者第21期昭和19年9月1日調では北部憲兵隊司令部附、憲兵中尉)の戦後証言によると、真崎大将は「お前達気持ちはヨウッわかっとる。ヨウッーわかっとる」とは全然言っておらず、「国体明徴統帥権干犯問題にて蹶起し、斎藤内府岡田首相高橋蔵相鈴木侍従長渡辺教育総監および牧野伸顕天誅加えました牧野伸顕のところから確報はありません。目下議事堂中心に陸軍省参謀本部などを占拠であります」との言に対し真崎大将は「馬鹿者! 何ということをやったか」と大喝し、「陸軍大臣会わせろ」と言ったとしている。 また、終戦後極東国際軍事裁判被告となった真崎大将担当であったロビンソン検事覚書きには「証拠明白に示すところは真崎二・二六事件被害者であり、或はスケープゴートされたるものにして、該事件関係者には非ざりしなり」と記されており、寺内寿一陸軍大臣転出したあと裁判長就任した磯村年大将は、「真崎徹底的に調べたが、何も悪いところはなかった。だから当然無罪にした」と戦後証言している。真崎好人物で誰の話でも親身になって聞くため、脈あり誤解され勝手に祭り上げられいただけ可能性が高い。 決起した青年将校には、天皇主義グループ主として実戦指揮官など)と改造主義グループ政情変革狙っており、北一輝思想影響受けた磯部栗原など)があり、特に後者クーデター後睨んで宮中などへの上工作行った。また陸軍省参謀本部ではクーデター万一成就した時の仮政府について下記のように予想していた。 内閣総理大臣 真崎甚三郎 内大臣あるいは参謀総長 荒木貞夫 陸軍大臣 小畑敏四郎あるいは柳川平助 大蔵大臣 勝田主計あるいは結城豊太郎 司法大臣 光行次郎不詳北一輝 内閣書記官長 西田税 推理作家松本清張は「昭和史発掘」で 「26日午前中までの真崎は、もとより内閣首班引き受けるつもりだった。彼はその意志加藤寛治とともに自ら伏見宮軍令部総長告げ伏見宮より天皇動かそうとした形跡がある。真崎その日早朝自宅を出るときから、いつでも大命降下のために拝謁できるよう勲一等略綬佩用していた。(略)真崎宮中形勢不利とみるやにわかに態度変え軍事参議官一同賛成荒木積極、他は消極的ながら)と決行部隊幹部全員推薦受けても、首班に就くのを断わった。この時の真崎は、いかにして決行将校らから上手に離脱するかに苦闘していた。」 と主張している。 磯部は、5月5日第5回公判で「私は真崎大将会って直接行動をやる様に煽動されたとは思いません」と述べ5月6日第6回公判で、「特に真崎大将首班とする内閣という要求をしたことはありません。ただ、私が心中真崎内閣適任であると思っただけであります」と述べている。また村中は「続丹心録」の中で、真崎内閣説の如き吾人の挙を予知せる山口大尉亀川氏らの自発的奔走にして、吾人何ら関係なく行われたるもの、と述べている。 『二・二六事件』で真崎黒幕説を唱えた高橋正衛は、1989年2月22日、その説に異を唱える山口富永対し末松太平立ち会いのもとで、「真崎組閣の件は推察で、事実ではない、あやまりますと言った青年将校相沢裁判通じて相沢三郎を救うことに全力挙げていたのに、突然それを苦境陥れるような方針転じたのは、二・二六事件により相沢救いだせると、何人かに錯覚に陥れられたのではないか考えられること、西園寺公が事件予知して静岡避けていたこと、2・26事件持永浅治少将の言によれば思想計画ともに十月事件そのままであり、十月事件幕僚関与している可能性のあること、2月26日の昼ごろ、大阪小倉などで「背後真崎あり」というビラばらまかれ準備周到なることから幕僚派の計画であると考えられること、磯部浅一との法廷対決において、磯部真崎に彼らの術中落ちたと言い追求しようとすると、沢田法務官がすぐに磯部を外に連れ出したことを、真崎述べている。また、小川関治郎法務官湯浅倉平内大臣らの意向受けて真崎有罪にしたら法務局長を約束されたため、極力故意に罪に陥れるべく訊問したこと、小川磯村年裁判長に対して真崎有罪にすれば得することを不用意に口走り磯村大い怒り裁判長辞す申し出たため、陸軍省狼狽し杉山元仲裁で、要領得ない判決文折り合うことになったことも述べている。 1936年12月21日匂坂法務官真崎大将に関する意見書起訴案と不起訴案の二案を出した刑罪階級氏名職名陸士無罪 叛乱者利す 大将 真崎甚三郎 軍事参議官 9期

※この「真崎の事件関与」の解説は、「二・二六事件」の解説の一部です。
「真崎の事件関与」を含む「二・二六事件」の記事については、「二・二六事件」の概要を参照ください。

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