真崎教育総監罷免
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陸軍士官学校事件のあと、1935年(昭和10年)7月、皇道派将校として唯一、高官(教育総監)の地位に残っていた真崎甚三郎大将が罷免された。このことで皇道派と統制派との反目は度を深めた。青年将校たちはこの罷免に憤慨した。荒木大将が陸軍大臣であった頃でも、内閣の抵抗を克服できなかった荒木大将に対して幻滅していた経緯から、真崎大将が青年将校たちの唯一の希望となっていたからである。 また、真崎教育総監の罷免は統帥権干犯であるという批判もなされた。陸軍教育総監は陸軍三長官の一つに数えられ、これらの最高ポストの人事は、制度上は陸軍大臣が握っていたが、長い間の慣行で、陸軍三長官の合意により決められることになっていた。三長官会議で示された真崎の罷免案は、統制派による皇道派高官の一掃人事の一環であり、真崎はこの人事に承服しなかった。林陸軍大臣は真崎教育総監の承服を得ぬまま、天皇に上奏して許しを得た。こうした経緯で統制派は皇道派の真崎を教育総監の地位から追放した。このことが、教育総監は天皇が直接任命するポストであるのに、陸軍省の統制派が勝手に上奏して罷免するよう仕向けたのは、天皇の大権を犯す統帥権干犯であるとして批判された。村中と磯部は、罷免に関して永田を攻撃する新しい文書を発表し、西田も文書を発表した。
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