町村制以後
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安房郡域の町村制施行時の町村(※1897年に平郡・朝夷郡・長狭郡を安房郡に編入)1.北条町 2.館山町 3.豊津村 4.西岬村 5.富崎村 6.長尾村 7.豊房村 8.神戸村 9.館野村 10.九重村 11.稲都村【平郡】21.凪原村〔のち那古町〕 22.船形村 23.八束村 24.富浦村 25.岩井村 26.勝山村 27.保田村 28.佐久間村 29.平群村 30.滝田村 31.国府村【朝夷郡】41.白浜村 42.七浦村 43.曦村〔のち千倉町〕 44.健田村 45.千歳村 46.豊田村 47.丸村 48.北三原村 49.南三原村 50.和田村 51.江見村【長狭郡】61.太海村 62.大山村 63.吉尾村 64.由基村〔のち主基村〕 65.田原村 66.鴨川町 67.曽呂村 68.西条村 69.東条村 70.天津村 71.湊村〔のち小湊町〕現在の行政区画赤:館山市 桃:鴨川市 紫:南房総市 橙:鋸南町 1889年(明治22年)、町村制が施行されると、星ヶ畑村・東野尻村・西野尻村・上野村・仲居村・代野村・二子村・宮野下村および嶺岡東牧が合併して曽呂村が成立。曽呂村という名称は、この地域が古くは曽呂郷と呼ばれたところから来ている。 当地の旧家のひとつとして水田家があり、江戸時代後期に建てられた旧水田家住宅(大字西 字西平良、登録有形文化財)が現存する。明治時代中期の当主であった水田竹蔵は曽呂村長も務めたが、英国から輸入したホルスタイン種牡牛をいち早く飼育したともされる。竹蔵の子の信太郎もまた村長を務め、村内の小学校統合などを行っている。信太郎の子の一人が、第二次世界大戦後の高度経済成長期に経済閣僚として活躍した水田三喜男である。 1955年(昭和30年)、昭和の大合併にともない、江見町・太海村と合併し、新設された江見町の一部となる。
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町村制以後(1889-)
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町村制の施行に伴い、1889年(明治22年)に立神村として単独で村制を敷いた。神明浦村は当時戸数100戸に満たない小村であったため、鵜方村あるいは立神村に服属することを求められ、神明浦村の住民は立神村との合併を望んだが、三重県庁が鵜方村との合併を強制したため、神明浦村と立神村の合併は実現しなかった。1890年(明治23年)に村の規約が制定され、私有山林取締規定・衛生予防組合規約・土地売買規則・風俗矯正規則・諸営業取締規則も続々と策定された。 立神村の大きな転機となったのは、真珠養殖業の浸透である。1893年(明治26年)に家族らを連れて多徳島へ移住した御木本幸吉は真珠養殖に取り組み、1905年(明治38年)、多量のアコヤガイから5粒の真円真珠の養殖に成功した。真珠養殖が軌道に乗り始めた御木本は、独占を図るべく英虞湾奥の海面一帯に区画漁業権の設定を開始し、立神村および立神漁業組合と1905年(明治38年)12月13日に契約を締結した。契約書の内容は、立神村の地先海面の約3分の2に真珠介区画漁業権を設定する一方で、従来の漁業は妨害せず、立神村に20年で1万円を支払うというものであった。1903年(明治36年)に発足したばかりの立神漁業組合には38人の組合員がいたが、専業の漁家はおらず、当時の漁獲高は367円に過ぎなかったため、村は好機と見て御木本と契約した。 締結した当時は破格の条件であった契約は、真珠養殖の隆盛によって立神村に不利に働くようになり、満了する1925年(大正14年)には、契約書の末尾にあった同様の条件での更新を求める御木本側と、漁場を取り戻そうとする村側との対立に発展した。まず真珠養殖経験のある村民が中心となって御木本と交渉し、漁業権を免許する三重県に真珠介区画漁業免許出願書を提出するも不調に終わったため、1925年(大正14年)8月24日に立神村真珠漁業権獲得同盟会を設立した。続いて青年団と在郷軍人分会が自警団を立ち上げ、御木本側の切り崩し工作を阻止すべく村の出入り口に監視員を配置し、交渉員の留守時に居宅の警備を実施した。村民は三重県知事や農林大臣らに集団陳情を繰り返し、11月19日には猟銃を手にして100人超で御木本の拠点・多徳島を急襲するなどして、12月28日に御木本の区画漁業権漁場のうち4分の3を獲得、残る4分の1は年50円で御木本に賃貸することで、漁業権問題は決着した。漁業権獲得運動が立神村の勝利に終わったのは、相手の感情に訴える戦法をやめて、途中で契約書の有効性や専用漁業権など法的な問題に絞って交渉するようになったからである。 村を挙げて、生業を放棄して闘ったことに加え、昭和金融恐慌が重なったため村の経済は苦しくなり、真珠貝の漁獲高は一時的に0となった。1932年(昭和7年)に剰余金の組合員への配当に関する規定が制定され、1935年(昭和10年)には任意組合として立神真珠組合が発足し、漁業組合から真珠養殖に関する権利が委譲された。実際に組合員に配当が始まったのは、真珠組合発足以後のことである。 第二次世界大戦後、新漁業法の成立により1951年(昭和26年)に76人1,855台の筏で真珠が養殖されるようになり、1956年(昭和31年)には164人6,437台に急増した。この間、立神村は1955年(昭和30年)に近隣町村と合併し、阿児町の大字・立神となった。養殖業者の乱立による漁場環境の悪化を受け、1958年(昭和33年)より三重県は条例で筏の規制を開始した。1965年(昭和40年)頃より日本の真珠産業は不況に陥るが、立神の真珠養殖業者は経営規模の縮小とノリ養殖の新規導入によって乗り切った。1970年代に調査のために立神を訪れた社会学者の牧野由朗は、当時の立神の様子について、昼間は一部の高齢者を残して老若男女問わず真珠工場へ働きに出るので、集落内はほとんど人影がなく、夕方になると帰宅ラッシュで賑い、真珠工場の労働者を載せた自動車やマイクロバスが行き交う、という内容を記している。労働者は立神集落内や甲賀・志島など近隣地区から通勤していた。 2018年(平成30年)3月末、志摩市立立神小学校が143年の歴史に幕を下ろし、校舎は2019年(平成31年)3月1日に解体された。同年3月19日、SBエナジーが出力規模約2.1MWの太陽光発電所「ソフトバンク三重志摩阿児ソーラーパーク」の営業運転を開始した。
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