町村制以後とは? わかりやすく解説

町村制以後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/17 20:44 UTC 版)

曽呂村」の記事における「町村制以後」の解説

安房郡域の町村制施行時町村(※1897年平郡朝夷郡長狭郡安房郡編入1.北条町 2.館山町 3.豊津村 4.西岬村 5.富崎村 6.長尾村 7.豊房村 8.神戸村 9.館野村 10.九重村 11.稲都村平郡】21.凪原村〔のち那古町〕 22.船形村 23.八束村 24.富浦村 25.岩井村 26.勝山村 27.保田村 28.佐久間村 29.平群村 30.滝田村 31.国府村朝夷郡】41.白浜村 42.七浦村 43.曦村〔のち千倉町〕 44.健田村 45.千歳村 46.豊田村 47.丸村 48.北三原村 49.南三原村 50.和田村 51.江見村長狭郡】61.太海村 62.大山村 63.吉尾村 64.由基〔のち主基村〕 65.田原村 66.鴨川町 67.曽呂村 68.西条村 69.東条村 70.天津村 71.湊村〔のち小湊町現在の行政区画赤:館山市 鴨川市 紫:南房総市 鋸南町 1889年明治22年)、町村制施行されると、星ヶ畑村東野尻村西野尻村上野村仲居代野二子村宮野下および嶺岡東牧合併して曽呂村成立曽呂村という名称は、この地域古く曽呂郷と呼ばれたころから来ている。 当地旧家ひとつとして水田家があり、江戸時代後期建てられ旧水田家住宅大字西 字西平良、登録有形文化財)が現存する明治時代中期当主であった水田竹蔵曽呂村長も務めたが、英国から輸入したホルスタイン種牡牛いち早く飼育したともされる竹蔵の子信太郎もまた村長務め村内小学校統合などを行っている。信太の子一人が、第二次世界大戦後高度経済成長期経済閣僚として活躍した水田三喜男である。 1955年昭和30年)、昭和の大合併にともない江見町太海村合併し新設され江見町一部となる。

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町村制以後(1889-)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 09:19 UTC 版)

阿児町立神」の記事における「町村制以後(1889-)」の解説

町村制の施行に伴い1889年明治22年)に立神村として単独制を敷いた神明浦当時戸数100戸に満たない小村であったため、鵜方村あるいは立神村服属することを求められ神明浦村の住民立神村との合併望んだが、三重県庁鵜方村との合併強制したため、神明浦立神村合併実現しなかった。1890年明治23年)に規約制定され私有山林取締規定衛生予防組合規約土地売買規則風俗矯正規則・諸営業取締規則続々策定された。 立神村大きな転機となったのは、真珠養殖業浸透である。1893年明治26年)に家族らを連れて多徳島移住した御木本幸吉真珠養殖取り組み1905年明治38年)、多量アコヤガイから5粒の真円真珠養殖成功した真珠養殖軌道に乗り始めた御木本は、独占を図るべく英虞湾奥の海面一帯区画漁業権設定開始し立神村および立神漁業組合1905年明治38年12月13日契約締結した契約書内容は、立神村地先海面の約3分の2真珠区画漁業権設定する一方で従来漁業妨害せず、立神村20年1万円支払うというものであった1903年明治36年)に発足したばかりの立神漁業組合には38人の組合員がいたが、専業漁家はおらず当時漁獲高367円に過ぎなかったため、好機見て御木本契約した締結した当時破格条件であった契約は、真珠養殖隆盛によって立神村不利に働くようになり、満了する1925年大正14年)には、契約書末尾にあった同様の条件での更新求め御木本側と、漁場取り戻そうとする側との対立発展した。まず真珠養殖経験のある村民中心となって御木本交渉し漁業権免許する三重県真珠区画漁業免許出願書を提出する不調に終わったため、1925年大正14年8月24日立神村真珠漁業権獲得同盟会を設立した続いて青年団在郷軍人分会自警団立ち上げ御木本側の切り崩し工作阻止すべく出入り口監視員配置し交渉員留守時に居宅警備実施した村民三重県知事農林大臣らに集団陳情繰り返し11月19日には猟銃を手にして100人超で御木本拠点多徳島急襲するなどして、12月28日御木本区画漁業権漁場のうち4分の3獲得、残る4分の1は年50円御木本賃貸することで、漁業権問題決着した漁業権獲得運動立神村勝利終わったのは、相手感情訴え戦法をやめて、途中で契約書有効性専用漁業権など法的な問題絞って交渉するようになったからである。 挙げて生業放棄して闘ったことに加え昭和金融恐慌重なったため経済苦しくなり、真珠貝漁獲高一時的に0となった1932年昭和7年)に剰余金組合員への配当に関する規定制定され1935年昭和10年)には任意組合として立神真珠組合発足し漁業組合から真珠養殖に関する権利委譲された。実際に組合員配当始まったのは、真珠組合発足以後のことである。 第二次世界大戦後、新漁業法成立により1951年昭和26年)に76人1,855台の筏で真珠養殖されるようになり、1956年昭和31年)には164人6,437台に急増したこの間立神村1955年昭和30年)に近隣町村合併し阿児町大字立神となった養殖業者の乱立による漁場環境の悪化を受け、1958年昭和33年)より三重県条例で筏の規制開始した1965年昭和40年)頃より日本真珠産業不況陥るが、立神真珠養殖業者は経営規模縮小ノリ養殖新規導入によって乗り切った1970年代調査のために立神訪れた社会学者牧野由朗は、当時立神様子について、昼間一部高齢者残して老若男女問わず真珠工場働きに出るので、集落内はほとんど人影がなく、夕方になると帰宅ラッシュで賑い、真珠工場労働者載せた自動車マイクロバスが行交う、という内容記している。労働者立神集落内や甲賀志島など近隣地区から通勤していた。 2018年平成30年3月末、志摩市立神小学校143年歴史に幕下ろし校舎2019年平成31年3月1日解体された。同年3月19日SBエナジー出力規模約2.1MWの太陽光発電所ソフトバンク三重志摩阿児ソーラーパーク」の営業運転開始した

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