町村制以後の古里
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「古里町 (鹿児島市)」の記事における「町村制以後の古里」の解説
1889年(明治22年)4月1日に町村制が施行されたのに伴い桜島の東半分の区域にあたる湯之村、野尻村、古里村、有村、黒神村、高免村、瀬戸村、脇村の区域より北大隅郡東桜島村が成立した。それまでの古里村は東桜島村の大字「古里」となった。1897年(明治30年)4月1日には「 鹿兒島縣下國界竝郡界變更及郡廢置法律」(明治29年法律第55号)によって北大隅郡が鹿児島郡に統合され、東桜島村は鹿児島郡のうちとなった。 1914年(大正3年)1月12日に桜島の爆発が発生し、噴煙は高さ約1万メートルに及んだ(大正大噴火)。爆発当時の古里の人口は571人、戸数は76戸であった。 古里の住民は前日11日から避難を開始し、噴火時にはほとんどの住民が垂水へ避難しており犠牲者はなかった。噴火後、古里に設置されていた改新小学校は2月24日に授業を再開した。また、避難した古里の住民のうち1戸は北種子村(現在の西之表市)、9戸は花里(現在の鹿屋市花里町)、5戸は宮崎県雛守・真幸の官有地へ移住したほか、種子島の安納にも任意移住した。古里の温泉街は大きな被害を受け、旅館1軒、下宿屋1軒が残るのみとなったが、昭和初期までには下宿屋が9軒となり復興した。1929年(昭和4年)には古里温泉の入浴者数は年間2000人前後であった。 1950年(昭和25年)10月1日には東桜島村が鹿児島郡伊敷村とともに鹿児島市に編入された。同年10月18日に鹿児島県公報に掲載された鹿児島県の告示である「 鹿兒島市の一部大字の變更」により、東桜島村が鹿児島市に編入された10月1日に大字古里の区域より新たに鹿児島市の町「古里町」が設置された。 1960年(昭和35年)1月19日には桜島が連続的に爆発し、古里町では人頭大の噴石が多数落下した。1963年(昭和38年)には度々飛来する噴石によって旅館の窓が破損する被害が相次いだ。1972年(昭和47年)10月2日には噴火によって巨大な噴石が古里海岸付近に落下したほか、林芙美子文学碑では山火事が発生した。1984年(昭和59年)4月19日には豪雨によって第二古里川で土石流が発生し下流の古里温泉にあるホテル6棟が被害に遭い、被害にあったホテルの一部は倒産した。1992年(平成4年)には噴石被害が多発した隣接する有村町の住民の移住が行われ、1世帯3名が古里町に移住した。2018年(平成30年)7月7日に梅雨前線の発達により発生した平成30年7月豪雨では古里町でがけ崩れが発生し2名が死亡した。
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