無断撤退に対する評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 02:32 UTC 版)
「第4航空軍 (日本軍)」の記事における「無断撤退に対する評価」の解説
第4航空軍司令部の台湾への敵前逃亡に等しい無断撤退は、世上一般には命が惜しくて台湾に逃げ帰ったと非難されることが多く、特に司令官であった富永にその非難が集中しており、なかには「日本陸軍史上最低最悪の将官」にすら満たない人物であるとか、真の戦争犯罪人であるなどと酷評されることもある。富永ら特攻指揮官に批判的であった作家の高木俊朗は「富永軍司令官は詭計をもって逃げ去った」「はじめに美名あり、終りは無恥と無責任であった。これが富永軍司令官の正体であった。しかしこれは富永軍司令官ひとりのことでなく、軍部に多くに共通する性格であった」と極めて厳しい言葉で富永を非難し、さらにその非難は日本軍の体質にまで及んでいる。同じ作家で従軍経験もある伊藤桂一も著書で第4航空軍司令部の無断撤退を批判し「今度の戦争ほど、上級軍人が汚名をさらしたこともめずらしく、敢闘した下級将兵と比較して今日なお考えさせられる多くの問題を含む」と第4航空軍司令部を通じて日本軍上級軍人を批判している。戦前から海軍首脳部と親しく、戦後も軍事評論家の第一人者として「大海軍記者」などとも呼ばれた伊藤正徳も「無断脱出して後から諒解を求めるという卑俗の常法を執ったものであろう。それがいかに幕僚達の入知恵であったとしても、主将富永はその全責任を負わねばならぬ」と富永個人の責任を指摘している。同じ軍人側からも、台湾で第4航空軍との連絡係をしていたた第8飛行師団参謀の神から「極端な表現を以てすれば世界戦史上稀に見る怯懦の史実であり未曾有の喜劇であろう」と辛辣な表現での批判があがっている。 第4航空軍の搭乗員の多くは、司令部が脱出したあとにフィリピンから救出されており、司令官富永への印象が大きく変わることはなかった。陸軍特攻隊「富嶽隊」の梨子田実曹長は、所属機をすべて失ったあとにフィリピンから救出されて、そのあとは台湾とフィリピン間の輸送任務に従事しながら戦争を生き延びて、「富嶽隊」の数少ない生還者となったが、戦後に富永が帰国するというニュースを聞くと、「帰国した富永に挨拶をして敬意を表さなければならない」と考えて、舞鶴の引揚港から東京に向かう富永が乗車する汽車を浜松駅で待ち受けて、客車の窓を探して歩き、やがて富永を見つけると、人混みをかき分けながら近づいて「ご苦労でありました。富嶽隊の梨子田曹長です。フィリピンではお世話になりました」と声をかけている。富永は窓から顔をのぞかせて、梨子田の方を見ると、重々しく頷きながら「やあ、ありがとう。貴官もご苦労だった」と梨子田の苦労を労っている。一方で、すべての地上要員と一部取り残された搭乗員は、富永が自分らを置いて台湾に無断撤退したことを知ると、裏切られたという気持ちになっていった。取り残された第4航空軍司令部暗号班の安田誠兵長によれば、戦後にわずかに生き残った同期生で戦友会を開催したときに、「富永を呼んできて、皆で殺そうじゃないか」と過激なことを言う者までいたという。 一方で、第14方面軍参謀長の武藤は事前に自ら富永へ台湾への撤退を提案していたこともあって「彼等の悪口に一つに、第四航空軍司令部が台湾に移った事が含まれているのは失当である。当時の戦況でことに燃料、弾薬の乏しかったカガヤン河谷に、航空軍司令部が固着しているのは意味をなさぬ。速やかに台湾に移って作戦の自由を得る方が適当であった。私は冨永中将にこれを勧めた」と巣鴨プリズンの獄中で記述した手記で擁護している。陸軍航空士官学校55期生で、太平洋戦争では司令部偵察機搭乗員として実戦も経験し、終戦時には大尉で航空士官学校区隊長を務め、戦後には防衛庁戦史室で戦史を研究し戦史叢書の編集にも携わった生田惇は、命が惜しくて逃げ帰ったとする富永への非難は、自らも叩きこまれてきた日本陸軍の高級士官の心構えから見ても見当違いであり、上級の士官になればなるほど、状況不利でも挽回の努力をすることが必要であり、富永が台湾に退却しないと満足な航空作戦ができないと判断したのは、戦略的な判断としては正しかったと擁護している。一方で、戦い敗れて挽回できなかったときは、命を惜しんだと誤解され、卑怯と冷笑されるのは高級軍人の宿命である。とも指摘している。また、長期に渡って大量の特攻機を運用してきた富永には余人には窺い知れぬ心労があったはずで、最後まで「決戦」の意志を貫いた意志力は評価に値するが、山下からマニラでの決戦を避けて持久戦をおこなうべしとの命令を受けて、今までその意志力を支えてきたものが崩壊し、常軌を逸した行動に出てしまったのでは?と同情している。高木と同様に従軍記者として特攻隊を取材した経験を有する作家の山岡荘八も、「富永中将だけを責めようとは思わない。中将は病気のために判断を誤ったのか、さもなければ同期である武藤中将の弁護の通り、一時でも早く空軍を再建しなければとするあせりと病気が重なって、山下大将のいるバギオまでいけない肉体条件のまま、参謀たちに無理に台湾行きの機体に担ぎ込まれた」と擁護しつつも、台湾に脱出したのちの活躍がなかったのが残念としている。特攻出撃から何度も生還した「万朶隊」の佐々木も、生前のインタビューで富永について「逃げたから卑怯なんて誰も思いませんよ。作戦上の名誉の撤退だって言って」と答えている。 また、戦争当時フィリピンで第4航空軍付の報道班員として富永を間近で取材していた毎日新聞の村松は、富永の人物像を「元来繊細な、軍人というより文化人的な神経の持ち主」と評し、「次々と特攻隊を送り出した精神的負担から病気になった」と述べている。また、台湾への無断撤退については「だいたい富永氏はマニラを死守する決意でした。富永氏は温厚な人柄ですが、一面一徹強情な人ですから、特攻隊に殉ずるつもりだったと私は見ています」「当時の四空軍の参謀はニューギニア以来敗走なれがしており、また航空軍の特権意識の強い人たちでした。彼らは自分たちが台湾へ後退するのに、軍司令官を置き去りにするわけにはゆかないので、心身ともに衰えた軍司令官に強請して、台湾行きを納得させ、離脱させたのだと、比国に残された私たち記者は一致して考えていました」と当時に現地で取材していた報道班員の記者たちは富永に同情的であったと述べている。そして第4航空軍司令部に対しては「この軍司令部は、極めて劣悪な人的要素で構成されていた」「富永中将も立派な軍司令官ではなかったし、参謀、各部長等軍司令部首脳部は、戦場に対する責任も、部下に対する愛情も、なかったと言われて致し方ない」「このときに、(富永)軍司令官は、参謀たちの全くのロボットであった」と評している。同じ報道班員として富永に専属のようにして取材をしていた、のちに読売新聞社会部部長として連載「昭和史の天皇」も主管した辻本は、戦後に旧軍人を批判、揶揄する「暴露本」の出版や、「真相」と銘打った戦記物の流行で、富永にも様々な汚名が冠せられたことに対して、「真相」というものは大方あやふやなものであって、必ずしも事実そのものではないと指摘し、富永に冠せられた汚名を拭い去る意図はないとしながらも、軍事雑誌の丸に「富永司令官比島脱出の真相」という記事を寄稿して、当時の富永について詳細な記述を残している。
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